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「Spicy Marmalade」 … 著:S.H.R


 「女の子ってよくわからない」


 これは、半年ほど前の僕の言葉だった気がする。
 そして今、僕は――

「おい、焼けてるぞ、衛。」
 何故か、焼肉食べ放題の店にいる。
 半年前の自分の言葉を反芻していたら、“心、焼肉屋に在らず”だったのだろうか。弟の僕でも正直思う、体躯の割に似合わない神経の細やかな兄貴が知らせてくれた。
「食わなきゃデッカくなんねーぞ。」
 そう言ってデッカくなる必要などまるでもう無い兄貴は、自分の分の焼肉を平らげる。
 母親に似て割と小柄な僕が、知識も体力も必要な救急隊員を志望していると知っての勧めだろうか。
 僕は中学3年になったばかりで、まだまだ成長期だし、兄貴すらまだ高校2年になったばかりで(ちょっと恐ろしい事に)もっと成長するかもしれない。
 勿論しないかもしれない。コンプレックスとまでは思わないが、気にしない訳でもない自分がいる。
 ただ、どちらにしても気の早い心配だと思う。でも、この兄貴ならそんな細かい所まで気にしているかもしれない。
「しかしまぁ、お前が岬を好きだったとはなぁ…。」
「わ、悪ぃかよ。」
 両親が外出で、今夜はこの兄貴・操と兄弟水入らずで食事。この「思春期」という時間を過ごす、僕ら「悩める青少年」特有の話題をするには丁度良いのかもしれない。
 いわば、「初恋限定」の悩みだろうか。
 勿論その事を話すつもりだったが、僕は唐突な話題にうろたえざるをえなかった。今更思うのもどうかという感じだけど、大体焼肉屋でやる事なのかな。
 触れられたくない所に触れられて少しばかり機嫌を損ねるのと同時に、疑問を抱いた僕は隣の席でビールを飲みながら談笑する大人のグループを見た。彼らの様にアルコールでも摂取できれば話しやすいのかもしれないと思ったが、生憎と僕らは未成年だ。
「しかしまぁ、あれだな。思ってたより俺らを取り巻く環境はフクザツだったんだな。」
「そ、そうだね。」
 妙に兄貴が冷静に分析をしたので、僕は納得した。
「えーと、俺があゆ…みちゃんを好きだった訳だが、そのあゆみちゃんがお前を好きで、お前は岬を好きで…えっとそこは、過、え…昔の事を何て言うんだっけ?」
「過去形?」
「そう、過去形だ!」
 申し訳ない表現で残念だが兄貴は少し頭は良くない。無理して格好付けずとも言いたい事は何となく分かった。
「“昔の事”で判るよ。“好き”なのか“好きだった”なのかどっちか?って事だろ?」
「で、どっちなんだよ?」
「え、あー…。」
 ムスっと呆れる様に質問の意図を汲み取ったとアピールした僕に、得意のケンカ並に鮮やかに質問をカウンターしてきた。
 僕は自分で自分に質問しながら、そんな事をしているならその時間を、回答に回さなかった事を後悔した。
「んー…、さぁ。」
「さぁって何だよそりゃ。」
「…………。」
「ま、いいや。」
 僕の口から出てきたのは他人事みたいな回答だった。
 それまでムスっとしていたせいか、機嫌を察して兄貴はそれ以上を問わないで続けた。が、本当は回答を忌避していたのではなく、それが回答だった。
「で、その岬があゆみちゃんの兄貴が好き、と。」
「ああ、そーだよ。」
 改めて突きつけられるとやっぱり少し腹が立つ。
 素っ気無い“そーだよ”は、先ほどの回答の意図を誤解させたまま、それを余計に兄貴に伝えているだろうが、腹が立つからか「違う」とすぐに解くのも面倒になったので、兄貴の出方を待った。
「う〜〜〜〜〜〜〜ん………、なぁ衛?」
「何?兄貴。」
「…やっぱこれ、えらくフクザツだな。」
「そ、そうだね。」
 気がつけば僕ら兄弟はまた同じ事を言っていた。
 ただ違うのは、兄貴が先ほどから言いながら紙ナプキンに書いていた、似合わない丸字で書かれた、その話題に纏わる人物の相関図が完成していた事だった。
 目をやれば、相関図と言うより路線図の一部と言った方が正しい様な、見事な一方通行が成立していた。
 形だけ切り取って客観的に眺めると、この中に当の自分が居るのが凄く奇妙な事に思える。
「で、まぁ岬の方はあゆみちゃんの兄貴と今んとこ上手くいってるらしいから、こう、と。」
 そう言うと、その二人の間の矢印のみ双方向に兄貴は書き直した。変に器用に片手で焼肉を頬張りながら。
「あ、いけね。いくら美味くてももの書きながら食っちゃ行儀悪ぃな。」
 変に器用な兄貴が変に気配りをした。本当にアンバランスな兄である。
「別に一緒に食ってるの僕だけなんだし、気にしなくても。」
 なんだか気にしない自分の方が行儀悪い人間に思えてくるな、と思いながら、僕もハラミに箸を付けた。
「しかしまぁこれがお互いあまりよく知らねー人間ならまだいいんだけどよ…。」
「兄弟二組に、幼馴染一人だもんね。世間って狭いや。さき姉が好きになったってのが有原さんの兄貴だってのも偶然なんだろ?」
「そうらしいな。とにかく…やりにくいな、これ。」
「ホントに。」
 僕達兄弟は途端にズーンとうなだれた。
 そりゃそうだ。これじゃ誰かが恋を成就すれば、その誰かと極めて身近な他の誰かとの関係も、今時に言葉を濁せば「微妙」になる。実るか実らないかだけで悩むならまだしも、たとえ実ってもその他の誰かとの事も考えてしまう。その人も自分の、あるいは自分の好きな人にとって大切な存在だから。
 既に兄貴より一足先に味わっている身としては、十分身に染みていた。

 即ちそれは、僕と、さき姉こと山本岬との関係に他ならない。

「今まで、本当にごめんなさい…!!」

 生まれた時から、物心ついた時からいつも傍で遊んでいた、「幼馴染で1つ年上のお姉さん」。
 およそ4ヶ月前、これまた後で紐解いてみれば実にフクザツななりゆきで、正面からそう言われた。
 彼女からすれば、僕は弟の様な存在。
 僕からすれば、彼女は初恋の相手。
 それがいつの間にか、どこがいーのかよく分からない、高校のクラスメイトに盗られた。
 正直、すっごくムカついた。

 去り際に僕の頭を撫でてきたさき姉のその仕草は、彼女からすれば“ムシのいい話かもしれないけど、これからも付き合ってくれ”という意思だった気がする。
 それは確かにそうするより仕方ないのかもしれない。
 何しろ“お隣さん”。
 付き合いたいとか付き合いたくないとかいう以前に、どんな形であろうと付き合わざるを得ないのだから。
 親に養われている身の中高生の僕らには、住宅事情は高い壁だ。フったからフられたから、付き合いがぎこちなくなるから傍から離れたい、なんて出来るはずもない。
 とはいえ、今まで通り何も変わらないで姉の様な存在と弟の様な存在で、といけるはずもなかった。
 事実、さき姉は半年前までは頻繁にやっていたのに、僕ら兄弟に用事がある時に、隣り合っていた自分の部屋の窓から僕の部屋をショートカットしてこない。それが十分に全てを物語っていた。
 多分、(ねえ)の一番長く傍に居た家族以外の異性である事は客観的に見ても明らか(※目の前の兄・操除く)で、誰よりも想い続けてきた自信だってある。
 それだけにそう簡単に諦められる訳でもなく、吹っ切れる訳でもなく、しかし、最近は考える事も面倒になってきた節がある。
 “時が解決してくれる”とは、もしかしたらこういう事なんだろうか。
 だとしたら、恋って随分とあっさりしているなと思う。

「まぁーこの際だから俺達だけでもはっきり話とこうぜ?」
 兄の言葉が僕を現実に戻した。
 ケンカを吹っかけられては勢いで買ってしまって、生傷の絶えない兄。だが、2つの年齢差は話し込むのが適切、と冷静に判断させるだけのものがあるのだろうか。
「た、例えば…例えばだぞ!?あゆみちゃんがお、お、お、俺の方を選んだとしたら…」
 無駄に念押ししなくてもいいだろ、と正直僕は苛立った。同時に僕はなんで苛立っているのだろうとも思った。
「本人いないのにドモる事ないだろ…。まぁ、こうなって…このままがずっと続いたら、もしかしたら…えーと、さき姉の彼氏である有原さんのお兄さんが、兄貴のお義兄さんになって、さき姉も義姉になって??って事かな?」
 言っていると本当にややこしい。
 ただそれ以上にそこで言葉が続かなかったのは、有原さんの兄とさき姉が、目の前にいる(僕の)兄貴の義兄・義姉になるって事は、僕の義兄・義姉にもなるって事じゃないのか?と想像が巡ったからだ。
 でも、もっと驚くべき事は有原さんを「お義姉さん」と呼ばなきゃいけない事だった。

「おう、衛〜遊びに来たぜ〜。あゆみも連れてきてるけどいいか?」
「久しぶり、衛くん。」
「お久しぶりです、あゆみ義姉さん。」

(うわ〜!!スゴイ事になっちゃってるよ〜!!!?)
 あの有原さんを、“お義姉さん”?!
 兄貴の言ったケースの幸せ家族計画を想像すると奇天烈極まりなく、眩暈がしそうだった。
 この場合、相関図の中で一人自分が蚊帳の外に置かれて、貧乏くじを引いている事なんか全く気にもならない程に。
「…どーした?」
 両手を抱えてうろたえる仕草のおかしい僕を(汗)で括った様に兄貴が質問した。
「ま、いいや。あゆみちゃんが俺を選ぶかお前を選ぶかなんて、あゆみちゃん次第だから俺達が考えても仕方ないトコあるしな。ただ…衛、お前の方はどうなんだよ?」
「……!」
「あゆみちゃんの判断も、お前次第で条件が変わっちまうトコもあるんだぜ?今は衛の事好きって言ってる訳だが…。」

「あたし、やっぱり財津衛くんのことが好きなんです!!」

 唐突に家に来てそう言われた(正確には兄貴に向けてだが)のは、ほんの数週間前。
 彼女がそれとなく、いや、思えば結構ストレートに僕に好意を持っていてくれていたのは知っていた。
 しかし、僕自身がさき姉に意識が向かっていた事もあり、有原さんとは、互いに互いの立場を知りながら何が進むわけでもない、これもまた今時に言えば「微妙」な関係が続いていた。
「お前は、あゆみちゃんの事は好きなのかよ?」
 ストレートに聞く兄貴がなんだか少しその有原さんに似ている気もした(暴力的な意味でなく)。
「どう…って言われても……。」
 僕は戸惑うしかなかった。
「別にそーなれば俺が有利になるとかじゃないけどよぉー、その気が無いんならハッキリ断った方がイイと思うぜ?」
 兄貴がこれまたストレートに正論を突きつけてきた。
 誰かを好きになる方は経験済みだった一方、彼女以外にもバレンタインにチョコレートを貰った事だってある。けれど、誰かに好かれる方は慣れてなくて、僕自身にもどうしたらいいか分からなかった。
 でも、不器用なりに年上らしい兄貴の言葉が絶対的に正しく響いてくる。
「……さき姉も…、こんな感じだったのかな…?」
 実に抽象的で言葉足らずな表現にも関わらず、兄貴はまた鋭く全てを理解し、同じ様に最小限の言葉で返してきた。
「……たぶんな。まぁこんなナリの俺だから保障はできねーけど。」
 不器用なのは僕の方だった。


「ふぃー、食った食ったぁ〜。」
 食事を終えて店を出ると、満腹に満足して兄貴が陽気に背を伸ばした。
「兄貴は、どうなんだよ?」
「ああ?」
「その…、もしも俺が有原さんの事好き、になったら…兄貴の方が、さ…。」
 また濁しがちの言葉で意図を伝える僕の頭を、194cmの巨体の手がくしゃりと撫でてきた。
「…アホだな。俺の好きなあゆみちゃんの恋が叶う、お前も幸せになる。確かに俺の恋は破れんのかもしれねーけど、十分お釣りくる結果だろ?」
(か、勝てない…!)
 無理をしているのかもしれないが、兄貴が凄くでかく感じ、何処までも自分は“弟”なのだと思わされた。
「だが、当分は俺達ライバルだからな、衛……!『好きな気持ちはしょーがねぇ』。どーなっても恨みっこナシだぜ?」
 足元を掬われた上に、今度は拳の関節を鳴らせながら兄貴はそう言った。今夜、彼が一番伝えたかった事はそれだったのだろう。
 別の意味で勝てそうにない僕はぞくっと背筋が凍った。
 “ピリリリリ…!ピリリリリ…!”
 と、そこへ唐突に兄貴の携帯の着信音が鳴った。
「ハイ。おう、あーん?今?焼肉屋だけどよ。ああ?ちったぁお前らでなんとかしろよ!チッ、しょーがねぇな。今すぐ行くから待っとけ!!」
 会話の内容から察するに、いつもの様にケンカの助っ人を要請されたのだろう。
「悪ぃな、ダチがピンチみたいでよ。ちょっくら行ってくら。」
「無茶だけはすんなよ。」
「わぁってる!」
 兄貴の交友関係とケンカ癖は恋愛とはまた別に、隣人とはいえ他人のさき姉までよく心配している、財津家の頭痛の種だった。いい加減なんとかしてほしいが、悩み疲れと食べ疲れからか、慣れていた僕は注意だけにして見送る事にした。
「兄貴。」
「ん?まだ何かあんのか?」
「ケンカばっかしてると有原さんに嫌われるよ?」
「ウッ…!」
 ささやかな反撃だった。


 帰ったら包帯と傷薬の準備かな。そう思いながら、帰路を一人で歩いていく。
(有原さんの事かぁ…。)
 先ほど、さき姉も同じ様な感情だったのだろうか、と自分は言ったが、それが僕と共通しているのは「好かれている事に戸惑う」という点までだ。
 さき姉はその先が、僕の事を“弟としか見れない”から恋愛対象外、という答えが既に在って、「今までごめんなさい」とは言ったものの、僕が自分の想いをちゃんと伝えてからそう答えるまでの時間は、今僕が有原さんに対して“現段階の一定のもの”でも、何かしらも応えていない時間よりも短い。

「だからどけって言ってんでしょーーーーーーーッ!!!」

 それまで僕が好きな異性としての範疇で見ていたのは、何処かクールな印象を抱かせつつも優しい姉。
 そして僕が、「守る」という奇しくも自分の名前と同じ行動を使命とする救急隊員に興味があるからだろうか、それともただステレオタイプな見方なだけだろうか。
 女の子を“本来は守ってあげるべきかよわい存在”と思っていた自分には、その範疇からはおよそ大外れな女の子…。

「うわーん、信じらんないっあのバカ兄〜〜〜〜〜〜!!!」

 …それが有原さんな気がする。
(正直、姉とは大違いだよな……。)
 ここで僕はふと気付いた。
(…って、なんで僕、さき姉と有原さんを比べてんだろ。ご大層な身分だよな。)
 ただ、考えるだけならただだし、自分自身に深く関わっている事なので、その考えもすぐに引っ込めた。

 帰宅して自分の部屋のベッドで寝転びながら週刊少年ザンプを手に取る。
 そろそろ来月のリサイクル回収に出せ、と言われる量が溜まってきたので、単行本で買っている以外の漫画を、と今の内に読んでみた。
 だが、所詮僕にとっては「単行本で買っている以外の漫画」。リラックスしているせいや当然ながら一読したせいもあって、内容よりも、さき姉や有原さん、兄貴の事が頭に入ってくる。それに、きっとその方がいい。
(あの兄貴を蹴り一発でKOしちゃうんだよなぁ……。)
 改めて紐解き返すと、それが一番最初のインパクトだった。ある種の畏怖すら感じてしまうほど。
 そういえば、見かけこそ正反対だけど、何処か兄貴とも似ている気がする。
 騒々しくて勢いが先行していて、それが当事者(ぼく)には丸見えである事も分からないで自分を着飾る。
 そう考えると、何かカワイイ気もしなくもないけど…。

「おはよう財津くん♡」

 やっぱりウサギのフリしたヒグマだったりして。

 でも、考えてみれば僕にはそんな事すら出来てなかった気がする。

「僕は本気で悩んでるんだ。幼なじみでしかも年下ともなると、全然異性として見てもらえないし。」
「しかいっその姉弟のような関係でさえ失うのが怖くて行動できない――だろ?」

 江ノ本さん(じぶん)の事には鈍かった割に、変に鋭い楠田君の指摘はご尤もだった。
 姉弟のような関係が、姉弟のような関係として成立しているのは、受け入れ難くも、僕自身が痛烈に“弟”である事を自覚していて、変えようとはしなかったからこそだ。

「ああこれ?これねぇ、本命チョコ!」

「ぼくはさき姉…山本岬からの、チョコレートがあればそれで――」

 “盗られるかもしれない。”
 14年、誰よりも深く想ってきた。
 その割には、聞いた話の兄貴が有原さんにした様に勇気を振り絞って正面切って告白した訳でもなく、その有原さんの様に料理を作ったりしてアピールする訳でもなく――
 心の奥底に引っ込めていた嫉妬が、僅かばかりに僕の口を衝き動かしただけ。視線すら、合わせられなかった。
(かっこ悪いな……。)
 つまるところ、僕は臆病だった。それが全てだった。
 そう考えると、有原さんが僕に伝えてきたアピールも、本当はああ見えて凄く勇気を振り絞っていたんだろうか。
 それに、さき姉が告白しようとする河川敷に僕を引き合わせようとしたのも、一歩間違えればかなりリスキーな選択だ。
 彼女がそんな画策をしていた事よりも相手への嫉妬が強かったせいで、僕の場合はあまり気にしなかったけど、本当はああ見えて相当考えた末の選択だったんじゃないだろうか。
(ン?でも……。)

「ホントにごめんなさい、ホントに…」
「いいよ、僕はもう気にしてないから…」

(…後日謝られたって事はやっぱり考えてなかったのかな?)
 ただ、どちらにせよ少なくとも僕には出来そうもない。「好き」という自分の心を強く伝え、なんとしても実らせたい。そんな塊じゃなければ出来ない事だ。
(って……。)
 途端に僕は、自分の顔が紅潮しているだろう事を自覚した。
 思い量ろうとするとすればするほど、彼女の気持ちを、強く感じている。

 一番印象的だったのは、さき姉の事があって楠田君や曽我部君と当てもなく家出した時――
 海岸で彼女らに見つかった僕らは往生際悪く逃げ出して、背中から彼女のその蹴りみたいなインパクトのある言葉をかけられた。

「なんで逃げるの?今も山本さんのことが好きだから!?」

「好きな気持ちは仕方ないじゃない、逃げたって好きな気持ちは消えないよ!?」

 彼女に正面から「あなたが好きです」と言われた事はない。自分がさき姉の事が好きなのも彼女に正面から告げてはいない。
 でも、それが分かっていながら、「好きな気持ちは仕方ない」って相手に言えるだろうか。相手の事を本当に一番に思っていなければ、多分言えない。
 好きという気持ちがあればどうにかなる訳でもないし、きっとこの先どんどんそんな自由な恋なんて出来なくなっていくんだろう。現に僕は盛大にフられている。全てが満たされる100%の恋愛なんて初恋限定、それくらいは中坊の僕でも分かる。
 だけど、彼女のその言葉は幼いだだっ子の様で、単純であるが故に、実は一本芯の通った一番強い恋愛の哲学の様にも思えた。
(“好きな気持ちは仕方ない”、…か。)
 それからしばらくして彼女が唐突に家にやってきて返事してきた兄貴も、奇しくも同じ事を言っていた。
 兄貴と有原さんと同じ事…――ムカッ
(あれ?なんだ?今の「ムカッ」って……。)
 でも、僕の背が低いのも、遺伝じゃなくて余計な事あれもこれもと詰め込んで頭でっかちになっていたからかもしれない。
 回り道なんか要らない。好きって気持ち、その大事なものひとつあれば、ただストレートに進めばいいんだ。今更ながらそんな事を教えられた気がする。
(やっぱりウサギのフリしたヒグマだな。)
 クスっと笑いを零しながら僕は彼女の事を形容したこの表現を繰り返した。
 ただそれは最初に抱いた畏怖ではなく、(僕が言うのも失礼だが)見かけこそ小さい体だが、気持ちはでっかくて――
 そんな風に思えたからだ。
(兄貴もさき姉も有原さんも、強いよな。…あれ?)
 ずっと物思いに耽っていると、その内容は気がつけばほとんど有原さんの事ばっかりだった。
「ウ〜〜〜イ。」
 低い唸り声をあげながら兄貴が帰宅したので、僕は1階に降りて傷の手当に向かった。ちょっとありがたいと思った。



「あ、あのさぁ…有原さん。」
「ほへ?ざっ、財津くん!?…なっ、何?!」
「今日、うっかり部活ない事忘れててこれから予定空いちゃったんだ。で、この間マスド出来てクラスの皆もよく行ってるじゃない?僕まだ行ってないから、その、授業終わったら行って…みない?」
 翌日の僕のこの行動は、“気が向いたから”だった。彼女には失礼だが、別に彼女と付き合おうなんて上段までは全く思ってもいない。
 でも、こんな誘いさえ、口にするとすごく照れくさかった。
 有原さんは逆に僕の行動が思いがけなかった様で、一度思いっきり引いた後、どぉっと反応が返ってきた。
「……………ええええええっ!?ざ、ざざざざ、財津くんが?あたしと?!」
「あ、ダメならいいんだけど…。」
「いえっ!行かせていただきます!!行こう!絶対行こう!」
 今度は光速で反応が返ってきた。
 と、思いきや今度は思い出したかの様にあたふたと慌てふためく。
「アーーーーッ!でもあたしは今日部活あるんだったーーッ!夏のコンクールもあるし、『今年は絶対県大会優勝だかんね!』って小宵ちゃんと約束したし、うわーんどうしよーっ!??」
 有原さんはくるくると表情を変える。
「い、いいよ別に待ってても。どうせ僕は暇だし、図書室で本でも読むか一人で絵でも描いて待っとくよ。」
 そう言い終わるか言い終わらないかという内に、彼女は僕の両手をガシッと掴んできた。
(――ヘッ!?)
「い、いいの?!じゃあご、ごめんだけど待ってて!待ち合わせは5時半に校門でいい!?」
「あ、うん、じゃ、それで。」
「…げっ!もうこんな時間!アーッ!もうなんでこんな日に限って部活かなーっもう!あ、ありがとう財津くん!!じゃあ後で!5時半だから!」
「は、はい…。」
「…ぜ、絶対だからね。」
 彼女は最後になって思い出した様に淑やかに振舞った。正直言って、遅い。
 しかもそう言った後は、猛ダッシュでガララッと教室のドアを開け、後を覗いてみると小躍りしながら駆けて行っていた。
 僕はわざわざ台風に突っ込んであれよあれよとキリキリ舞いしている様な感覚に陥りつつも、それがなんだか面白かった。
(さき姉とは全然違うよなぁ……。)


 校舎から生徒も少なくなった夕刻、僕は校門前で図書室から借りた小説を読んで彼女を待っていた。
 ドドドドド…!
 猛ダッシュの足音を聞いて、姿を確認するまでもなく僕は小説を閉じて鞄に入れた。
「ハァハァ…、ご、ごめん財津くん!待った?」
 待ちきれない!とばかりに、息を切らせながら有原さんはやってきた。
「ううん、じゃ、じゃあ行こっか。」
「う、うん!」
 パアァァァーと彼女は目を輝かせて返事をした。
(そんなに僕とファーストフードに行くのが嬉しいのかぁ…。)
 少し紅くなった顔を思わず僕は隠そうと横を向いた。彼女は嬉しさのあまりか気付いていなかった。

「あ、有原さん?」
「だって、財津くんが笑った顔…ずっと見てなかったんだもん…。」

 喜怒哀楽、くるくると変わる表情を隠そうともせず、ストレートに表現する彼女。
 小さな台風みたいで、いつの間にかあれよあれよと巻き込まれて、気が付けばその表情をずっと追っている自分がいる。
 さき姉とは全然違う。賑やかで、少なくとも一緒に居て退屈する事はなさそうだし…。

「でもなんかスッキリした!ここまで旅が出来たからこんな気分になれたんだと思うよ。」

 それに、あの日以来、なんだか新鮮な気分でいる自分がいる。もしかしたら、旅を続けたからじゃなくて彼女が僕を追っていたからなのかもしれない。
 そう思うと、「初めての恋」じゃなくて、「恋を始める」――
 初めと始め、初歩的な同訓異字を問う漢字テストに出題される「始め」の方が、恋においては大事なのかなと思えてきた。

 さき姉みたいな人もいれば、有原さんみたいな人もいる。
 女の子ってよくわからない。
 ただ…そう、相手が全然違っていても、不思議にも何度でも、恋を始めてみると、初めての恋と同じ、新鮮な気持ちにさせてくれている気がする。だったら…。

「財津くん、これ食べよっ!ハバネロフォカッチャ!」
「うーん、僕辛すぎるのはちょっと…。」

「うーん、オイシィ〜〜!!いい店出来て良かったよね!」
「そうだね。」

「今日は楽しかった〜!本当ありがとう財津くん!また…明日学校でね。」
「うん。」
 こうやっていつの間にか巻き込まれながらも、このまま少しくるくる表情を変える彼女を見るのも悪くない…かな。
 今度は手くらい繋いでみてみようかな?そんな風に次のステップも頭に浮かぶ自分が不思議だったけど、そう考える事は心地良かった。
「あ、あと、今度は…食べに行くんじゃなくて、あたしがクッキーリベンジするから、た、食べてくれる?」
「うん、是非ご馳走になるよ。」
 ただ、3日後、こう返事した事を僕は酷く後悔するのだった。ある意味、さき姉の事よりトラウマなので、理由はあまり言いたくない。