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> 「夢の続き 明日の風」
■SCENE-01:『目覚める為の夢』
最初は、一人の少女が秘めるちっぽけな夢でしかなかった――
それは2009年、9月。
夏はとことん暑く、冬はぐっと冷え込む盆地ならではの気候であるここ京都も、少しずつ秋の訪れを予感させる季節だった。
「…………くれよな!」
「うん!夢は………だね!!」
ハッ!
その女性は唐突に夢の世界から現実に意識を引き戻された。しかし、いつもと違う、見慣れない景色が視界に広がっている事に彼女は一瞬戸惑いを覚える。どうやらまだ微睡みの中にいるようだ。
「ここ…は……?あ、そうか。」
うすぼんやりながら、一面に広がる、古めかしくもしっかりと張られた年代物の木の天井を見て、ここが京都のとある料亭の一室である事を思い出した。その代わり、どうやら先ほどまで見ていた夢の事は忘れてしまった様である。
(あたし、京都に来てたんだっけ。)
そう自分の居場所を確認しながら布団の中から上体を起こす。と同時に、ズキン、という慣れない激痛が頭に走った。
(っ痛〜〜〜っ!)
思わず両手で頭を抱えながら、彼女は自分が昨日酷く痛飲していた事を思い出す。公私に渡って羽目を外すなどという言葉とは無縁の彼女にとって、二日酔いは未知の敵だった。目をギュッと瞑り、痛みに耐えているといくらか落ち着いてきた。すると今度は隣りの廊下からトタトタトタ…と急いた足音が聞こえてくる。
「さぁ〜て、洗濯、洗濯っと!…うん?」
ロングヘアーをたなびかせながら走る、また一人の女性の影が障子ごしに廊下から見える。その影は一瞬彼女の視線の前を通り過ぎようとしたが、すぐに戻り、ガラッと豪快に障子を開け放ってこう言った。
「おっはよー!起きたー?東城さ…ゲッ!!!」
「ふぇ?」
いささか間の抜けた声を出しながら、その東城と呼ばれた女性――東城綾は目をこすりながらその影の女性、北大路さつきを見上げる。よく見るとさっきまで元気な顔をしていたであろうその顔は、目を見開き、眉を潜め、まるで奇異なものを眺めるかのような視線になっている。
「あ、おはよう、北大路さん。…どうしたの?」
軽く笑みを浮かべながら綾は返した。しかし、さつきの顔は余計におかしくなっており、彼女からはこう返事が返ってきた。
「いや、頭…凄い事になってるよ?」
「へ?…あ、やだ、嘘!?」
途端に頭をワシャワシャとしながら恥ずかしそうに綾が答える。無理も無い。彼女の頭髪はまるで鉄腕アトムのように時計の10時と4時の方向に集中しており、普段なら浮かべれば花が咲くようなその笑顔も、返って滑稽さに拍車をかける演出道具になり果ててしまっている。これではさつきの奇異な視線も余計集まってしまうというものだ。尤も、奇妙な姿の綾を見る呆気に取られたさつきの顔もまた、あまり他人をとやかく言えたものでもなかったが。
「ぷ…あははははっっ!!」
耐え切れず、さつきが笑い出す。高校時代、何度か一緒に寝泊りした仲ではあるが、綾のこんな無防備な姿を見たのは初めてだった。一方の綾は髪を手探りでいじって何とか整えようとするものの、何をしてもその指先の感触は元の奇妙な髪型のままである事を伝えてくる。赤面しながらさつきの顔を見ていると、恥ずかしがり屋の彼女の性格をよく知るさつきの方も咄嗟に切り返す。
「あーごめんごめん。あんまり変な頭してたからさー。目ぇ覚めた?」
「…う、うん。」
起きてすぐこんな目にあっていれば目も覚めるというものだ。
「あっそ。そりゃ良かった。もう皆とっくに起きて帰っちゃったよ。残ってるのは美鈴だけ。」
皆とは、かつて彼女達が一緒に活動していた映像研究部の仲間達だ。
「え?そうなの?」
「うん、端本と小宮山は仕事でグアム行くからって関空へ出発。外村も新幹線に乗って帰ってったし、真中の奴もさっきまでいたんだけどねー。せっかく来たんだから今日は観光しなよって言ったんだけど、明後日から仕事で合宿入るから帰って休みたいって、先生と同じ電車で帰ったみたいよ。ガタイでかくなった割に考えが若くないよねー。」
まくしたてるさつきに対して、綾は、あーそーなんだー、という程度のまるで他人事のような感想しか沸かない。その反応の鈍さにさつきも気付いたようだ。
「あれ?もしかして昨日の事全然覚えてない?」
「うーん、すっごく楽しかったのは覚えてるんだけど…。」
記憶を辿る。昨日は自分の直林賞受賞の祝賀会を兼ねて4年ぶりに皆で会おうとさつきが女将見習いをしている京都の料亭に集まる事になった。午前で仕事を終えて新幹線で京都に向かうも、道に迷ってしまい美鈴と連絡を取りながら少々遅れて辿り着いた。既に席は整っていて、最後に淳平が現れると、高校時代と変わらぬ(ともすれば進歩のない)賑やかな男性陣の先導で飲めや騒げやの大宴会。そういえば彼と何か重要な事を話したような記憶もあるが、取り立てて何か大事な事を話した気もしない。それからはもうプッツリと記憶が途絶えている。宴会がどのように終わったかも覚えておらず、気が付けば朝を迎え、自分は浴衣に着替えて布団で寝ていた。
「ありゃまー、東城さん酒入ると記憶飛ぶタイプ?」
「…みたい。ねぇ、あたし何か恥ずかしい事してた?」
恐る恐る尋ねると、右手でこめかみをかきながら右斜め上に視線を傾けながらさつきが答える。
「いっや〜?ず〜っと呑みながら陽気に笑ってたくらいで、別に大した事はしてないと思うけど…?恥ずかしかったのは小宮山が脱いで腹踊りしてたくらいかな?」
それは比較にならない、と正直綾は思った。それに万に一つ、彼女が彼のような真似をしようとしたとしても周りが全力で止めるだろうし、億に一つした所で周りの人間は彼女に悟られぬ様、全力で秘密にしているだろう。
「あたし、どうやって寝たのかな?」
再び尋ねる。
「え?普通に美鈴と先生と一緒に浴衣に着替えて寝てたと思うよ…?まぁまぁそんなの気にしない!みーんなアンタの事よく知ってる人間ばかりでしょ?今更恥ずかしがるような事なんかナイナイ!」
細かい事を気にしない快活な彼女らしいな、と綾は思いながらその言葉に納得しながら微笑んでいると、続けてさつきの言葉が来る。
「とりあえずさ、お風呂入って目ぇ覚ましてきなよ!美鈴の奴も今入ってるし。」
「うん、ありがと。あれ?そういえば今日は着物着なくていいの?」
さつきの姿は昨日見た着物姿ではなく、シャツに短パンの実にラフな格好である。そして障子ごしでもわかったように髪も解いた、見慣れたポニーテール姿だった。
「ああ、今日はオフ貰ってるから。ここは離れの屋敷だし、お客さんにこんな格好してても見られたりしないから大丈夫。大体いつもあんな窮屈な服着てらんないわよ。胸が締め付けられて痛くて痛くてしょーがないったらありゃしない。」
(それなら何故女将なんかを…)と綾は心の中でつっこんだ。いや、彼女に限らず思う事だろう。ただ、オフと言いながらもさつきはなんだか忙しそうに見える。
「でもなんかお仕事してるみたいだけど…?」
少し呆れ気味の表情でさつきが返す。
「…今朝から昨日の後片付けしてたんだけど。まったく、大女将もあたしの友人って事じゃなきゃあんな無茶許してくれないわよ。一応、この離れで泊まれるようにもしてあるけど、本当はここ料亭なんだからね。滅多な事では貸さないし。で、今はアンタ達の浴衣とか布団とか洗ってるってワケ。」
「…ごめんなさい。」
「ま、あたしも昨日は配膳しただけであとは一緒に騒いでたんだし大きな事言えないけどね。」
舌を出しながらさつきが続ける。
「はい、分かったらさっさと眼鏡取ってお風呂に行くー!片付かなくて困ってんだから。あ、風呂はここ出て左ね。石鹸とかタオルとか全部用意してあるし、着替えだけ持ってけばいいから。午後も空いてるんでしょ?お昼食べたら色々案内したげる。」
「うん、いろいろありがと。」
眼鏡を取っていそいそと用意をしながら(なんだかお母さんみたいだな)と綾は思った。そしてこの状況は自分の家でも品の良い彼女から考えれば少し恥ずかしい事だった。
(これじゃ正太郎と同じだ)。
そう、どちらかといえば、彼女の弟の行動のそれに近い。
彼女が用意を整えて廊下を歩いてゆくのを「いってらっしゃーい。」と声をかけながらさつきが見守る。と、目の前でゴンッと衝突音を立てながら綾が転ぶ。しょっちゅう雑巾がけもしている廊下なので多少滑りやすくはあるが、一体どこで転ぶ要素があるというのだろうか。
「あいたた…」と膝をさする綾と目が合う。「大丈夫?」「あはは…大丈夫。」と交わすと、綾は廊下の角を曲がっていった。先程の奇天烈な髪型をした綾は初めて見たが、この類の無防備な姿は、さつきにとっても見慣れた光景だった。先日の直林賞受賞会見で見たブラウン管越しの彼女を見た時は少し凛とした輝きを放っていたが、目の前にいるのが同一人物とはとても思えない。それはさつきがよく知る東城綾そのもので、その姿に彼女はちょっとした安心感を感じたのだった。
角を抜けた先は浴場に入る前から漂う程の桧の良い香りがしていた。本屋敷の大きさに比べるとそれほど広い訳でもない、こじんまりとした脱衣所は綺麗に整えられていて、さすがは格式の高い京屋敷という所だ。
綾は(誰もいないのかな…?)と一瞬首をひねる。
離れには自分達以外誰もいないとついさっきさつきが言ったはずだが、脱衣所で人の気配が皆無という状況にいささかの違和感を抱くのは確かにあるかもしれない。しかし、その軽微な不安と共に抱いた疑問もすぐに消える。
(あ…。)
整然と並べられた棚の端の籠に、美鈴の服と愛用のヘアピンが残っている。それを見て安心すると彼女は早速眼鏡を外して浴衣を脱ぎ、代わりにバスタオルを体に纏いながら浴場に向かう。と、その時一瞬後ろを振り返ってしまい、彼女は洗面台の鏡に映る自分の姿を見てしまう。
(何コレ…)
思わず一人で顔をうつむき、(すぐにシャワーを浴びよう…)とささっと浴場に入る。綾にとってもこの寝癖は過去見た事のない「最低記録」だったらしい。彼女のようなサラサラした髪は、例え寝癖のつくような体勢であったとしても重力に引かれて割とすぐに降りただろうが、彼女は少し前に髪を切って髪全体を軽くしており、それがまずかったようだ。彼女のような髪は一度癖がついてしまうと却って直りにくいのである。
浴場に入ると、桧の香りがより強く漂ってきた。が、綾は(いい匂い…)と思いつつも、(それより頭流さなきゃ)という考えが過ぎる。すると湯けむりの中から美鈴の声が聞こえてきた。背後で綾が扉を開いた事で一瞬入ってくる冷気で、その存在に気付いていたようだ。
「およ…?先パーイ、起きましたぁ?」彼女の声が浴場に響く。
「うーん、おはよー、美鈴ちゃーん。」
何分浴場はそれなりの広さはあるし、流れるお湯の音や機械音のせいで、声のかけ方もやや遠目の相手を呼びかけるような形になる。
美鈴の方は景気付けとばかりに「じゃ、背中流しますねー。」と言い、ざばぁっと水音を立てて湯船から出てきた。
(まずい…!)
さつきの意見には先ほど同調したものの、彼女にとってそれが素敵な意見に見えるのは事実だが、本人の性格が備える本質的な感覚ではない。彼女は反射的に、これ以上こんな頭を見せるのは恥ずかしい、と思ってしまう。見られるのが自分をよく理解してくれている可愛い後輩であってもだ。
慌ててツマミを捻ると、シャワーから水が流れてくる。頭全体にかぶって寝癖も一瞬で収まり、途端に水に濡れた黒髪が頬に張り付く。画的には艶かしい姿だが、そこには一つの誤算があった。
「…先輩!水になってます!」
そう、シャワーから流れてきたのは文字通りの水。そして、ツマミをお湯に変えるより美鈴が追いつくのが一瞬早かったのだった。
「美鈴ちゃん、もういいよ!」
「な〜に言ってんですか。今回は先輩が主役なんですから。背中くらい流させてくださいっ。」
美鈴はどちらかというとあまりはしゃぎたてたりするタイプの性格ではないのだが、自分の尊敬する先輩の事となると、そしてその先輩と比べると、少し活発に見えるのは確かだ。一方恥ずかしがる綾の方は、少し美鈴の性格が変わったように感じ、それはあながち間違いでもなかった。
「それにしても昨日は凄かったみたいね。」
「えー?覚えてないんですかぁ?そりゃあそうですよー。だってあたし達の中から大作家が生まれたんですよー?」
「大作家ってそんな…」
「直林賞作家が大作家じゃないなんて言ったらバチ当たりますよ!せっかく貰ったんだからもっと自分を誇って下さいよ〜。」
言った後、(ま、先輩には無理な話かな?)と美鈴は思うのだったが、一呼吸置いてうなずき、綾が答える。
「…うん。ありがとね、美鈴ちゃん。」
「はい?」
「だって、今回皆呼んでくれたの全部美鈴ちゃんでしょ?」
「うーん、まぁ言い出したのは確かにあたしですけどね。でもあたしは北大路先輩に頼んで先生と東城先輩に連絡しただけで、あとの面子はバカ兄貴に任せてましたし。」
尤も、後の面子の内2名は彼女の兄貴にさえ伝えておけばすぐさま伝わるものだったのだが。
「外む…ヒロシ君も小宮山君もあんまり変わってなかったね。」
「あーホントに芸能プロダクション作るとはあたしも思いませんでしたね。でも、凄いとは思うんですけど、正直あの趣味は妹として泣けてきますよー。」
「あはは…。」
この点については二人とも素直に同意見のようだ。その後一通り体を洗い流した後で、二人で湯船に浸かる。
「いい匂いですよねー。」
「ねー。ところで美鈴ちゃんは卒業したら何するの?」
「あー…、それが決まってるというべきか決まってないというべきか…。」
バツが悪そうに苦笑しながら美鈴が答える。
「え?どういう事?」
「いや、それがはっきりした形ではないんですけど、今アルバイトで映画情報とか、ま、エンターテイメントを中心に雑誌で紹介する物書きみたいな事やってるんですよ。で、小さな出版社から声をかけてもらってて…。」
「へ〜凄いじゃない!じゃあライターの卵なんだ!」
綾は賞賛の言葉を送る。しかし美鈴はどうにも苦い微笑を浮かべながらこう応えた。
「…凄くなんかないですよ。あたし、大学入っても映画作ろうと思ったんですけど、一緒にやれる仲間も見つからなくて…、でもむしろそれが普通だし、だったら一人でもやるか、仲間を見つけるか、そこまでやらなきゃダメなんですよね。高校時代の映研、先輩達が最初に立ち上げたんだって知って、その時はなんとも思わなかったんですけど、正直凄い事だったんだなーって。あの時の自分に会ったら、『アンタの言ってる事は野次と同じ!』って怒鳴ってやりたいところですよ。」
「でも普通はそんなもんじゃない?」
「かもしれないですけど、思えばガキだったんですよね。ま、今もあんまり変わってない気はしますけど…。」
美鈴は話を続ける。
「それで、落ち込んでた時に今の彼氏と会ったんですよ。…あ、私彼氏の事言ってましたっけ?」
「ううん、聞いてない。どんな人なの?」
「彼も漫画家の卵やってて何度か小さい雑誌で連載もこなしてきたんですけど、いや、これがデカイ図体の割にしゃきっとしない男でしてね〜、飯もロクに作れないわ、出席しなきゃヤバい講義もすぐ忘れて危うくダブりそうになるわ、ネタに尽きたらすぐ他人に考えさせるし、締め切り前なんかもーいっつも泣きそうになってるし。ほんとあたしがいなきゃどうなってんのか…あ、彼の名前、内場って言うんですけど、ホントにもう…ん?どうしました?先輩。」
ペラペラと一人愚痴を並べ立てる美鈴。彼女をよく知る者なら一度や二度は必ず目にした光景だ。そんな彼女を見て微笑む綾に、美鈴も気が付いたようだ。
「うふふ、ごめんなんだかおかしくって。」
「えー?何がですかぁ?」
「だって美鈴ちゃんがそんなに他人の事熱心に語るなんて滅多にないじゃない。すごくその人の事好きなんだなぁって。それに美鈴ちゃんが惚れこむって事はよっぽど凄い人なんじゃない?」
それを聞いて美鈴は思わず赤面してしまう。傍から見ればただのノロケに過ぎないのだが、照れを隠す為に彼氏を愚痴って紹介するのは彼女らしいといえば彼女らしい。だが、目の前にいる彼女の先輩はそんな意図も無視し、彼女の本心をずばり言い当てる。しかも、先輩は嘘を吐けるほど器用な性格でもなければ、意地悪く彼女の本心を見抜く事を目的にしている訳でもない。全く何気なく本心で思ったことを口にしているのだ。その素直さが逆に恥ずかしくて美鈴の調子は狂ってしまう。
「んっんー…まぁそうなんですけどね。ノってる時は3日位徹夜で机向かいっぱなしだった事もありますし、彼の漫画に懸ける情熱はほんと凄いと思います。」
「あたしは2日が限界かなぁ〜体力持たない。」
「だから、あたし彼の漫画を一番近くで見たいって思うようになって、彼もあたしの事好きって言ってくれたし付き合い始めたんですけど…、でも……。」
「でも…?」
美鈴の顔に少し憂いが覗く。少しの沈黙を相変わらず鳴り響く機械音と水音が埋める。
「…でも、同時にますます自分に自信が持てなくなったんです。彼は頑張って次々と漫画を描いているのに、自分は映画一本も作れない。彼を見てると漫画ってのも奥が深い世界だなぁって感心しちゃって、かといって別に漫画を描く訳じゃないけど、自分が作りたいものって映画である必要はあるのかな?とか、じゃあどういう手段がいいのかな?とか、いや、そもそも自分は何かを作りたいんだろうか…?そんな風に一人でず〜っと考えちゃって、結局何もできないまま授業受けて彼を手伝ってるだけで…大した学生生活じゃないですよ。」
横目で美鈴を覗いていた綾が少し上を向き、んー、と口にした後こう述べる。
「………そんな事はないんじゃないかなぁ?」
「え?」
美鈴の顔がキョトンとする。ただ、純粋に驚くというよりは、続く綾の言葉を待っているという感じだ。
「あたしだって今はこーゆー仕事してるけど、別に小さい頃からずっと目指してきてなったって訳じゃないよ?皆はあたしの小説の事凄いって言ってくれるけど、自分でそんな風に思った事って全然なかったし、まぁ今は………今でもあんまりないかな?あはは。」
明るい自嘲の後、穏やかな表情で伏せ目のまま綾は続ける。
「勿論、あたしはあたしになりに頑張ってきたつもりだけど、そーゆー訳だからあたしが小説書けてるのって、何となくたまたまっていうか…もののはずみかなぁって思うし、モノ作りって美鈴ちゃんの言う通り確かに行動は必要だと思うけど、自分の気持ちが伴ってなきゃ嘘じゃない?だから焦る事なんてないよ。それにね。」
「それに?」
「あたしは一人で小説書けてる訳じゃないよ?色んな人と出会って色んな人の支えがあって、今の自分があるの。あたしにはどんな人か分からないけど、きっと内場君も美鈴ちゃんがいるから頑張れるんだと思うよ。…大体さっき自分で言ってたじゃない。『あたしがいなきゃどうなってんのか…』って。」
まったく、この人には敵わない。美鈴は濡れた額の髪をクシャっといじって笑い出す。
「アハハハハ!」
え?なになに?という表情で綾が美鈴の方を向く。何かおかしい事言ったかな?それともさすがに恥ずかしすぎる言い草だっただろうか?予想外の反応にそんな混乱が綾の脳裏を駆け巡る。
「いえ、ごめんなさい。だって先輩、彼と全く同じ事言うもんなんで…」
美鈴にとって彼女と内場は共に自分の価値観に強い影響を与えた尊敬する人物だ。その二人から同じ反応が返ってくるなんて、驚きというべきか、やはりというべきか。尤も、言った当人である綾からすればなんという事はない話なのだが。
「そんな風に沈んでた時にね、彼が言ってくれたんですよ。『別に急かんでもえーやん。美鈴ちゃんおるだけでじゅーぶん役立ってるで』って。それ聞いたら急に楽になったんです。今のあたしは自分が表現したいものが分からない。だったらとりあえず、そーゆー風に情熱持って何かに懸けてる人を少しでも手伝えるような事はないかな?って。そしたらあたしが作りたいものも見つかるんじゃないかな?って。」
「なるほど、それでライターを始めたのね。」
「ええ。そしたら彼の漫画の世界もそうですし、音楽の世界も、先輩の文学の世界も、あたしが一番好きな映画の世界も、はっきりいって紹介したいものだらけで、自分の世界って小さいんだなぁって…余計凹みそうになりましたよ。でも、そーゆー人達と会って、もっと色んな世界見てみたいって思うようになって、今はすごく楽しいです。」
「そっか〜、良かったね。」と、綾は微笑みながら返す。
「あ、でも全然つまんないモノまで取材して褒める記事書かなきゃいけないのはちょっと嫌かなぁ〜あたしそーゆー嘘吐くの苦手な性分なんですよね。仕事ですからそんなの言ってられないんですけど、でもこの間書いた時観た映画はほんっと眠かったなぁ〜。大体主人公が全く魅力がなかったんですよね〜そんなんだから周りの登場人物も何考えてんだかよく分かんなくなるし…。」
あらっ?と先ほど送った微笑みを硬直させながら綾の額から冷や汗が落ちる。唐突にいつもの辛口・美鈴が戻ってきただけに今度は綾の調子が狂ってしまう。
「だから、もっと一流の記事が書けるようになって、一流の人を取材出来るようなライターになりたいですね。これからどんな人に出会えるか、それ考えるとワクワクします。」
「きっと出会えるよ。一流の記事を書きたくなるような人に。」
「そうだといーんですけどね。今度、紹介しますよ。あたしの彼。」
「うん、是非会わせて。」
「まぁーあんまり期待しない方がいいですよ。外ヅラだけはいいのに、家だと漫画の事以外は全部だらしない男ですし。」
(い、家で会うんだろうか…?)と思いつつ、楽しげに語る美鈴が可愛く見え、綾もまた少し幸せな気分になれた気がした。どうやら彼女が抱いた美鈴の変化とは内場という彼の存在にあったようである。
「いいお湯だったね。」
「ですね。」
浴場から上がり、着替える二人。
美鈴は、白のキャミソールに膝下までの藍色のパンツルック。綾は、薄緑色の半袖のワンピースに、薄い白のカーディガンを着重ねている。着替え終わって髪を乾かしながら美鈴が尋ねる。
「ところで、これからどうされるんですか?」
「え?北大路さんが京都観光に付き合ってくれるって言ってたから、それに甘えよっかなって。6時までには新幹線で帰る予定だけど。」
「え…あーそうなんですか?じゃあ私も付き合います。」
それは美鈴が意図した質問の答えではなかった。が、これは彼女の聞き方が悪い。別に出された答えにはYESと応じることにして、本来聞きたかった事を再び 尋ね返す。
「すいません。そうじゃなくて、映画、作るんですか?って聞きたかったんですけど。」
「…映画?なんで?あたしはそんなの作れないよ。まぁできたらね、高校の時みたいに皆でまた一緒にやりたいなーって思うけど。」
またも美鈴が質問する意図とは違う返事が返ってきた。しかしこれも別に綾が的外れな"天然"ぶりを発揮した訳ではない。"誰と"を付けなかったせいだろうか?
「いえ、真中先輩と。これから先。」
「………え?」
綾の顔に途端に困惑の表情が浮かぶ。
「昨日言ったましたよ、真中先輩が。将来は絶対また先輩の原作・脚本で映画撮るんだって。それが俺の夢だって。まぁー結構酔っ払いながらあたしに言ってましたけどね。『なんだよ〜あんだけ高校時代俺にキツい事言っといてお前今映画やってねーのかよ〜』って絡み酒で。先輩は…あー!あの時北大路先輩にもたれかかって寝てましたっけ。ごめんなさい、それじゃ覚えてないですよね。あれ?でもその前には先輩もなんか言ってたよーな…」
確かに綾は昨夜普段の仕事と、長旅の疲れにお酒が加わったせいか眠りこけ、さつきにもたれかかって寝ていた。先ほど彼女が自分の様子を尋ね、さつきが「別に大したことはしてない」と語っていた時も、さつきはその事を思い出していたのだが、あえてそれは語らなかった。彼女を気遣ったのもあるが、実際さつきにとって別に大した事でもなかったからだ。だが、綾の方はそんな事実を聞かされても上の空といった顔だ。
「…先輩?」
(思い出した…。)
昨日の光景が、フラッシュバックする――。
それはついさっき見ていた夢の内容と同じだ。
「俺があの映画作れるようになるまで待っててくれよな!」
「うん!夢は泉坂コンビで
世界せーふく
(
アカデミー賞
)
………だね!!」
それは時間にしてもわずかほどの事だった。だが、綾の顔が困惑から驚愕に近い表情に変わる様子を美鈴は見逃さなかった。長く伸ばした髪を後ろで括り、前髪からサイドにかけて髪を"定位置"に手際よくヘアピンを差した美鈴は、言葉を探しながら続ける。
「…何か思い出したんですね。」
「…う、うん。」
しかし、あの会話は半分綾にとって酒も手伝っての社交辞令程度でしかない。だからここで美鈴に言われるまで思い出せなかった。どうやら彼はノートの小説の事は他の人間に詳しく話した訳ではないようだが、しかし、その言葉をどう受け止めればいいのか、彼女は混乱していた。映画ってあの小説を?あれは和製ではとてもできない純粋なファンタジー作品なのに。出来るか出来ないかも解らない。いや、出来る可能性は限りなく0%に近い。そう思うのが並の反応である。
(しかし、彼は…彼なら……本気かもしれない………。だけどあの作品は…。)
ぐるぐると思考が周り、固まる綾を見て美鈴が続けた。
「…真中先輩言ってましたよ。先輩がいなければ今の自分はなかった、って(絡み酒で)。出来たら高校の時みたいに先輩の脚本で皆で映画作りたいって(やっぱり絡み酒で)。だからあたし怒られたんですよ、映画やってないのかよって。あたしはその時『東城先輩も皆も、それぞれの人生があるんだから無理ですよ』って普通に相槌打ったんですけど、急に真剣な顔して『誰が無理って決めたんだよ。何年かかっても何十年かかっても俺はやるつもりだよ』って。」
やはり美鈴の話を聞く限りでも彼は真剣なのかもしれない。だがそれを知れば知るほど、苦悩が深くなる。それを避けるかのように斜めを向いて綾は答える。
「でも、プロの世界で高校の時みたいに映画作るなんて、誰でも分かる位無理な話でしょう?そんな夢物語、信じられる?」
「(夢物語…?)真中先輩は本気でしたよ。」
「それでも!」
目を瞑り、思わず声を荒げる綾に一瞬美鈴が怯む。
「それでも…私は彼には持て余る程の力を得てしまった。自分で言うのもおこがましいけど、その事は美鈴ちゃんだってよく分かっているハズ。真中君が傷つくと思うから、私は言うつもりないけど、例え彼が私と映画を作りたいと思っても、私がそれを望んでも、周りが許してはくれない。それが分からないほど…」
「バカじゃないと思いますよ、真中先輩は。」
"私は"と続く処を"真中先輩は"に変えられ、先に言葉にされる。現実主義者の美鈴らしからぬ反応に綾の目は開き、ゆっくり彼女の方を振り向く。
「あの人本ッッッッッ当にだらしなかったし、入部した時もあれでよくやってけるなぁって思いましたよ?正直言って高校時代の真中先輩は、あたしの中ではサイテー。でも、…少なくともそんな事を嘘で語れるような人じゃないです。」
(分かっている…)それは綾にも疑う余地のない事だった。"実力の差"は高校に入って進級するに従い、歴然と突きつけられたが、それでも彼は自分の書いたシナリオに精一杯全力で応えようとしていた。今見れば幼稚な出来でも、作品を見れば分かる事だし、何よりそれを一番近くで見続けていたのは誰でもない彼女なのだから。
「私は所詮素人です。モノ書きとか創作とか、他人を支える事はできても自分で作り徹した験しは一度もない。だからプロの、それも直林賞作家の先輩が言うんだから、無理ってのも間違ってないと思います。」
「………。」
「でも、どうして何かする前に自分で諦めちゃうんですか?夢見たり、それを表立って誰かに話したりするのは、確かにもう恥ずかしい年かもしれないけど、いいじゃないですか別に。誰が損する訳でもないし、もったいないですよ。自分から扉を閉ざしてしまうのは。」
「小説家になりたくねーのかよ。そんなに面白い話思いつくのにもったいねーよ。」
「夢ってさ、言ったら笑われるって…叶わなかったらカッコわりぃってそう思って友達とかにも今まで言ったこと全然なかったけど…」
ついつい力の入る美鈴の顔と一緒に、出会った頃の真中淳平の顔が浮かんだ。
同じだ。また同じ事を言われている――。
一方の美鈴は、段々恥ずかしさと他人の領域に踏み込んでいる事への罪悪感が芽生え始めていた。ただ、"持つ者"が失いかけている熱に対して、"持たざる者"だからこそ、そして信頼のある先輩後輩だからこそ、青いと解っている意見でも、その熱をぶつけていたのかもしれない。それはまさしく何の取り繕いもない、真剣な対話である。
天を仰いで目を閉じ、少し間を置いてから綾は振り返って言った。
「…そうだよね、ごめん。ずっと前にもこんな風にアドバイスもらったっけ。あの時と同じ。自分で解決しなきゃと一人で抱えて、結局誰かに心配させて…。ごめんね、ダメな先輩で。」
「そ、そんな事ないです!」
眉をハの字に曲げたいつもの先輩の笑顔が戻り、今度は美鈴の方が紅潮して慌ててしまう。とりあえず、と前置きしてガサガサとバッグの中を探り出し、美鈴は1枚の折りたたまれた紙を差し出した。
「これ、一番上が真中先輩の連絡先。今泉坂の実家にはいないそうです。」
手渡された紙には美鈴の手書きで書かれた映研メンバー1期2期全員の連絡先が載せてあった。
「本当はこれ皆にも渡すつもりだったんですけど、昨日酔っ払ってからやらなきゃいけないんだけどなーって思いながら結局渡しそびれちゃいまして。」
「うん、どうするか分からないけど、ありがたく受けとっておくわ。」
「…先輩達がまた映画を作れる日が来る事を楽しみにしてます。あたしが選んだ
未来
(
みち
)
はライターですから、直接携われる事は出来ないと思いますけど、その時が来たら、出来ればあたしも傍で一緒に見させて下さい。東城先輩の"選んだ
未来
(
シナリオ
)
"を。」
「…もちろん!」
「忘れモンない?」
「うん、色々ありがとう。」
午後5時40分、京都駅八条口。
この日は月曜だった事もあり、丁度通勤帰り、通学帰り、デート帰りといった人ごみがごった帰す時刻になっていた。あえてそういったカテゴリーに当てはめるならば、大きめのバッグを少し重そうに手に提げる綾は、さしずめ観光帰りというところで、半分正解だろうか。車のキーだけを手にしたほぼ手ぶらのさつきと、軽めのリュックを肩に背負った美鈴が彼女の見送りに出ていた。
「またいつでもおいで!」
「関西ならあたし達結構回りましたから、いつでも案内できますよ。」
「そーそー、京都もいーけど、大阪も結構見物よん。」
「あーこないだ行った天神祭はよかったですよねー。」
「だよねー。あたし江戸っ子だからさー、祭りになるとどーしても燃えるのよねー。」
「いや、でも先輩ははしゃぎすぎ!一緒に行ってて恥ずかしかったですよ〜。」
「何言ってんのよ!〆切りでウッチーが行けなくなったからって代わりに連れ出したクセして。」
「じゃああたしも先輩が彼氏作ったら彼氏の代わりに行きますよぉ〜。」
「… … …あんた本当あたしの事先輩と思ってないでしょ?」
(………。)
出会った時は反目しあっていたこの二人も、4年間の内に綾が知る以上の"名コンビ"になっていたようだ。高校時代と同じくケンカをしているが、今の二人からは温かい空気が伝わってくる。
「じゃあ、あたしそろそろ時間だから行くね。」
その言葉で、髪を掴みかかるさつきも、それから逃げようとする美鈴も、見送りに来たはずの相手を放ったらかしに"漫才"を続けていた事を途端に恥じる。
「またねー。」
「ほーい、お疲れさーん。バイバーイ。」
「こっち来る時は絶対連絡下さいよー、先パーイ!」
エスカレーターが2階に登って見えなくなるまで、互いに手を振り返す2人と1人。
「…行っちゃいましたね。」
「行っちゃったね。しっかし、アンタら風呂場でくっさい芝居してたわねー。」
「ゲッ!聞いてたんすか?先輩!」
「あんた興奮すると声デカくなるもん。全部じゃないけど丸聞こえ。」
今度は美鈴が一本取られた格好となったようだ。
「あたしにも夢みたいな話だと思うよ。でも、別にいーんじゃない?それにあのコと真中ならやり遂げちゃいそうな気もしなくもないのよね。」
ま、あたしは料理もてなす位しか出来ないけど、と後ろに付けて悟りを開いたようにさつきが呟く。すると、さっきまで一緒にお笑いムード一色だった美鈴も少し真面目に尋ね返す。
「どう思います?東城先輩。」
「は?」
「先輩は…あたしの事も気遣ってくれるし、あれだけの文才がありながらそれを鼻にかけるような事もしないし、あまり休む事もなく小説を書いてる。素敵な女性だと思います。」
「まぁねぇ、あたしだったら最低でも1年くらいは印税使って豪遊してっだろーなー。」
「だけど、自分の事になると、途端に不安になります。なのにあまり語ろうとしません。」
「そりゃーあのコが真面目さんだからでしょー?」
「ええ、真面目で責任感が強いから、周りに迷惑かけられない、誰も頼れない、そういう性格だって事は分かっていますけど…。」
「それも東城さんの良いトコだし、悪いトコでもあるって事よ。誰かに心配されたくなけりゃ、そーゆー顔しなきゃいいの。相手にそーゆー気にさせる方も罪なのよ。」
こう一見すると冷たい言う方こそがさつきなりの彼女に対する優しさなのだろう。そう言って彼女は停めていた車に向かい、美鈴も後を追う。
「演技とか嘘とか下手ですもんね、東城先輩。笑顔は多くなったけど。」
「ま、世の中やったモン勝ちって事ね。いい目標なんじゃないの?東城さんにも真中にも(本当はよーわからんけど)。さぁさ、その東城さんも皆も仕事だって帰っちゃったし、あたしも明日から仕事再開だし。美鈴ぅ、このまま晩ごはんどっかで食う?」
車に乗り込む寸前にキーを人差し指でくるくる回しながら、美鈴に問いかける。
「おごってくれるんですよね?」
ニヤリと不敵な笑みを隠しながら、即座に美鈴が反応する。言うんじゃなかった。しかし、わざとらしく目をキラキラさせる後輩は容赦してくれそうではないようだ。バタン!とドアを閉め、助手席で言葉を期待する「可愛い後輩」に問いかける。
「しゃーないわね。んー…じゃーどこ行く?」
「焼肉!」
「ダメ!天一でラーメン。」
「え〜先輩のケチ!」
「あのねぇ…安月給なんだから少しはあたしもさっきの東城さんくらい労わってくれませんか?美鈴・ちゃ・ん。」
「(うげっ気持ち悪っ)…では、そうしましょうか?北大路・セ・ン・パ・イ。」
「(うげっ気持ち悪っ)………やめとく。」
帰りの新幹線の中でも、真っ暗な闇と、そこに映る自分の顔を、綾は虚ろに見つめ続ける。
美鈴の言葉は力強かった。だが、彼女には分かっていない事が3つあった。1つは淳平の言っていた夢に纏わるノートの存在。彼女は単純に彼がまた綾と映画を作りたいと言っていたとしか認識していなかった。彼が言っていたシナリオとはまさしくそのノートの小説なのである。そして2つ目は彼の、もう1つの"選んだ未来"の存在。先のやりとりの中でも綾が見知っている認識との隔たりがそこにはあったのだ。カサリと連絡先の書かれたメモを開いて彼女は悩む。
「これだけは、誰にも相談できない…あたしは一体どうすれば……」
そして3つ目は、綾自身が考える夢。2人の人生を大きく変えてしまいかねない自らの望み…ホントウの願い。しかしそれは、だから彼女にとって美鈴が認識していた以上の夢物語なのである。勇気ある挑戦というよりは、無謀な"賭け"と言ってもいい位の。
だがそこへ、彼女の携帯電話から、ピリリピリリと、恐らく購入時のままであろう飾り気のない着信音が響き、現実に引き戻される。電話を開き、乗車する前に設定し忘れたマナーモードに戻す。
「新着メール1件」
「件名:お疲れ様。
本文:休暇は楽しめた?また明日から頑張っていきましょうね。P.S.この前みたいに降りる駅間違わないで下さいね。静香」
ピピピ、とボタンを押し、綾は「返信」のボタンを押す。
「件名:Re:お疲れ様。
本文:ええ、今帰りの電車です。ゆっくり満喫できました。また頑張ります!綾」
明日からはまた仕事の日常が待っている。〆切りに追われるなかなかに多忙な毎日だが、落ち着ける家で出来る点では申し分ない。旧友とも再会でき、刺激もありつつ、ゆっくり英気も養えた。
(考えるのはまた後にしよう。)
ひとまずは明日に備える事だ。そうして明日を生きれば、いつか望む
方向
(
ばしょ
)
に行ける。彼女はしばしの眠りにつくことにした。
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