Top > Writing > 「夢の続き 明日の風」




■SCENE-07:『日曜日の午後は耳を澄ましている』


「この辺はもう寒くなってきてんだなぁ…。ふぁぁああ…でもそれより眠いな。」
 淳平は橋の欄干に腕を組みながら体を預け、一際大きなあくびをしていた。
 彼が立っているのは三条大橋。ここは京都の名物の1つであり、下を流れる鴨川を臨み、人と車の行き交いも多く喧騒に囲まれている。だが、若干の眠気が久々に訪れた京都の風景を楽しみたい気分と共に心地よい微睡みをもたらしてくれていた。
 見渡せば、料亭やホテルからオフィス、飲み屋が入居するようないびつに並ぶビル郡が、ともし火の様に灯りを点け始め、それが反射して川面にも揺らめき、その上をさらに鴨達が泳いで散らす。川の流れは南に向かって続き、遠く京都駅と京都タワーが見える。暗いペイルブルーと遠く夕焼けの緋と灰色の雲とで溶け合うように構成された空が、間もなく夜の帳が辺りを包む事を告げている。
「ふぁぁああ…いいモンだなー京都。…ブルルッ。でもそれより寒いな。」
 一通り見渡して飽きたのだろうか。先ほどとはあべこべの反応をしながら淳平は身を竦める。橋の上は遮る物が何も無い。吹き抜ける風はそのままその身に当たる。
「コラ。」
 丁度そこへ、長い髪をまとめた女性が手提げの小さなバッグでポクッと彼の頭を小突いた。
「さつき。」
「ウーッス。」
 あくびで目じりに涙を溜めながら格好のつかない顔で横を向く淳平に、さつきが右手を顔の横からチョップをするような仕草で、あっけらかんと口を尖がらせながら挨拶をする。
「久しぶり…でもねぇな。」
 鼻の下をこすりながらポケットに手をつっこみ、少々だらけたスタイルで淳平が返す。
「呼び出しといてマヌケ面で待ってんじゃないわよ。」
「ああ、少々風邪気味かな。寒い。」
「単に寒いだけでしょ。どこ行く?ウチは流石に無理よ。この間暴れてくれたばっかだからね。」
「心配すんな。懐も寒いからそんな余裕はない。」
「………威張って言うコトじゃないと思うけど。」


(京都に来て結局こんな所か…。)
 淳平とさつきは少し歩いた所にある、どこにでもある居酒屋に入った。
「ちわーっす。」
 ガラガラと戸を開けて、さつきは慣れた口調で挨拶をして店内に入る。
「おーっ久しぶりやねぇ、さつきちゃん。」
「元気しとったぁ〜?」
「こらっ、相手が北大路さんだからって横柄な対応をしない!」
 口々に店員がさつきを出迎え、彼女もまたそれに応えて会話が弾んでゆく。
(ここ、全国チェーンの居酒屋だよな…?)
 挨拶一つにもきっちりしたマニュアル対応が義務付けられている店舗のスタッフと客で、こんなに親しげな会話が成り立つものか…?置いてけぼりを喰らう淳平に浮かんだ疑問はそれだった。彼でなくても同じ感想を抱くかもしれない。現に何人か既に入店してる客にも少しの間さつきに釘付けだった者も居る。だが、淳平にとっては改めて不思議にも見えるが、それが彼女の飾らない魅力が為せる業だという事はすぐに理解できた。
 と、そのような事を考えてる内に、店員の一人が淳平を指して尋ねてきた。
「後ろのコは…?」
「え?(あ、ちょっと忘れてた…)あー、まぁ腐れ縁ってトコかなぁ。故郷(むこう)にいるツレ。」
「あ、そうなん?まぁとりあえず案内するわ。」
(ト"コ"かなぁ…?"ト"コ…?そうか、ト"コ"…。)
 淳平はさつきのイントネーションが軽い関西訛りになっている事に新鮮味を感じていた。
「真中行くよー?…何描いてんの?」
「え?ああ、なんでもねぇ。」
 淳平はイントネーションの違いを探る余りに空中で単語を浮かべ、指でなぞってアクセント位置を確認していたらしい。そして、そんな他愛もない事を振り返りながらさつきの後をついてゆき、通された席に腰掛けた。
「さってっと〜。」
 一息入れながらさつきは上着を脇に置き、渡されたお絞りを軽く開け、早速食べたいものを見つけようとメニューに目をやっていく。淳平も同じ様にお絞りを開けて少しお冷に口を付け、やはりメニューを眺めている。互いに随分と男らしい、女らしい体格をしている点を除けば、どこにでもいるようなカップル、もしくは友人の光景だろう。
「大体決まった?」
「んーまぁとりあえず。」
「よっし、そんじゃ呼ぶよ〜。オーイ、お願いしま〜す。」
 笑顔でさつきが店員を呼ぶ。かけつけた店員の前で、二人は一通りのメニューを頼んでゆく。
「んーとあたしは、とりあえず生中…真中もそれでいい?」
「おう。」
「じゃあ生中2丁と、シーザーサラダと、豚キムチと、サイコロステーキとなん骨のから揚げと…。」
「あ、なん骨のから揚げ、俺も。」
「じゃ2人前で。それと真中ぁ、あたし焼き鳥頼みたいんだけど、どーする?」
「ん〜セットでいいんじゃねーか?」
「じゃあ、焼き鳥お好みセットで。あとはあんた何すんの?」
「焼きほっけと、生春巻きを。」
「あ、ごめん、あたしも生春巻き。」
 注文を繰り返す店員にOKサインを出してさつきがお冷を飲む。と、そこへ淳平が思わぬ注文をした。
「あ、お通しは俺はナシで。」
「ぶ。……ごめん、じゃああたしもナシで。」
 店員はその場を立ち去りホールに向かう。
「ちょっと真中!つきだし断るとか貧乏臭いマネやめてよ、かっこ悪い。」
 まるで礼儀を知らない中学生くらいの息子を叱る母親のような口調でさつきがコショコショと口にする。関西ではつきだし、関東ではお通しと呼ぶ傾向が強いよう だが、これらは大抵の居酒屋で注文が届く前に自動的に出される前菜である。漬物や煮物などが多いが、しっかり料金には加算されているので断ろうと思えば断れる。
「俺は金欠病なんだよ!だからせめて使う時位は好きなものばかりを食べる。そういう主義なんだよ。」
「……だから威張って言うコトじゃないっての。」


「くはーっ、こりはイケる〜!」
「でしょー!?でしょー!?絶〜対(じぇ〜ったい)真中(まにゃか)なら気に入ると思ってたのよーっ!まぁもっと飲め飲め!キャハハハハッ!!」
「おっと、これはすみません!さつきさん!わーははははっ!!」
「ちょっと、しっかり持ちなさいな。こぼしちゃうれしょ!さっ、グイーッと。」
 “この間暴れて”くれたその世話をさせられた分の鬱憤を晴らしているのだろうか、昔から気兼ねなく接する事が出来る淳平が相手だからか、それともその両方か。さつきの酔い方はかなりのもので、テンションも非常に高い。
 淳平も懐に余裕がないと言っていたのは完全に忘れているのだろうか、彼女にノせられてやはりピッチが加速している。さつきが淳平をノせ、更に淳平がさつきをノせてゆく、はた迷惑な酔っ払いのスパイラルが形成されてゆく。好きなお笑いや、互いの仕事の話など、話題は尽きない。
「プハーッ、ホンットいいなぁこれ。俺あんま日本酒とか飲まなかったんだけどこらぁいいな!さっすがはさつき様!料亭の女将目指してるだけあるねぇ。」
「やーね!何よそのオッサンくさいキャラ!単にあたしが好きなだけよ!」
 この盛り上がり様と共通した酒の好みといい、淳平とさつきは趣味や好みなど、とかく気が合う二人だった。二人とも割とおだてに乗せられやすい“お調子乗り”の節があるが、さつきに比べると淳平は人見知りで割と肩肘を張りがちな面が強い。色々思う所があるのだろうが、どうにも綾やつかさの前だと彼は自分を着飾る所があったし、唯に対しても少し兄貴面してしまう所がある(どちらかといえば確りしているのはその妹分の唯なのだが)。彼自身がこの時気が付いていたかは分からないが、彼が何一つも飾る事なく接する事ができる異性はさつきだけに等しかった。その為このような異様な盛り上がり様なのだろう。彼ら二人だけを取ってみれば、それは先日執り行われた同窓会の時よりもである。
 と、盛り上がっていた所で不意にさつきが立ち上がり、移動しようとした。
「おっ、どっこ行くんだぁ〜?」
 それを聞いて、さつきは途端に少し酔いが醒めてしまった。これは完全に失言だった。淳平もすぐにその事に気付き、「ワリ。」と一言だけ詫びて見送る。
 一人だけになり、手持ち無沙汰になったせいで淳平もテーブルに残ったから揚げを啄ばむ。忘れがちになるが、二人は異性なのだ。
 から揚げが底を着くと、淳平は今度はさつきの残している豚キムチに興味を注ぎ、少しだけ口にしてみた。
(やっぱ辛ぃな…。)
 彼は辛いモノと牛乳が苦手である。味の好みもさつきとは共通しがちではあったが、これだけはどうにも変わらなかった。というより、さつきにはまるで好き嫌いがない、といった方が正しいのかもしれない。
 と、そこへさつきが席に戻ってきた。時計を確認して、先ほどまでとは打って変わった表情で淳平に問いかけた。
「で?」
「“で?”って?」
「あたしに何か話したい事でもあるんじゃないの?仕事で近くに寄っただけで飯食いに来た訳じゃないでしょ?」
 伏し目がちに髪をかき上げてさらりと尋ねるさつきに、淳平はいつかの光景を思い出した。

「実は俺…ほかに好きな娘いたりするから…」
「東城さん…か。それともあのクッキー持ってきたかわいいコ?」

(あの時か……)
 明朗快活、少々豪胆ですらあるさつきだが、時々研ぎ澄まされたかのように淳平の芯を突く。それは気の合う性格の二人の間に唯一在る、決定的に正反対な部分を如実に物語っている。臆する事なく壁にぶつかれる性格であるさつきに対して、淳平は躊躇いがちの性格だった。彼女は彼の性格を知っており(それは彼女にとっては同じく唯一彼に持つ不満である)、業を煮やして自分から話を切り出したのだ。
(そんな訊き方をされれば話しにくいな……。)
 少し器用な性格ならば、それとなく彼から切り出すよう仕向ける術を知っていたかもしれないが、そんな小細工は好かないし、彼女はストレートに尋ねる。そして、そんな時は大抵不機嫌そうな顔をしている。その不器用さはむしろ淳平と似ているかもしれない。
 しかし、「話しにくい」と思うまでは良しとしてもそんな贅沢を垂れる身分ではないのは淳平である。意を決して彼は話を切り出した。
「西野の様子がおかしいんだ…。」
 それを聞いてピクッと眉を少し吊り上げて、さつきは呆れながら手にしていたお猪口を机に置くとこう言い放った。
「どぉーせそんな話だろうと思ったけどね。」
「…ごめん。」
「気を遣わなくても『悩みがある』って言われてる時点で大方想像ついてるわよ。大体謝るくらいなら最初から呼ばないで頂戴。」
 この煮え切らなさが彼の欠点であり、さつきが嫌う彼の性格の一部であった。ましてさつき当人にとっては全くとまでは言わなくも、今更気にかけているような事ではない。
「料理を作ろうとしないんだ。」
「たまたまそんな機会がないだけじゃないの?」
「…いや。」
(俺の家に来た時も「散らかっていて入る気がしない」と言っていたけど、あれは……。)
「恐らく避けている。」
「ふーん、そう思うのはなんで?」
「……そもそも。」
(そうだよ……)
「そもそも、こんな中途半端な時期に帰ってきた事自体がおかしいんだ。」
「確かフランスに菓子職人の修行に行ってたんだっけ?」
「予定では来年の春までは居るはずだったって聞いてた。それが何故……?」
「本場は流石にキツすぎてついてゆけなくなったんじゃないのぉ〜?」
 さつきはわざとらしく意地悪く聞いてみた。
(……そんな事だろうか?その可能性は0ではないとしても、西野はそんな事でへこたれるだろうか……それも終えるまであと半年だというのに?)
 返事をしない淳平にさつきが追い討ちをかける。
「……じゃあ、"作らない"じゃなくて、"作れない"、だとしたら?」
 ギクリ、と淳平の表情が硬直する。彼には彼女が帰ってきてすぐに行ったファミレスでのデートのとある光景が蘇っていた。
(こういう聞き方をすると真中は途端に答えに詰まる…。)
 さつきは苦い顔で彼を見つめて、続けた。
「ま、だけどソレあたしに言ったって何か変わるのかしら?本人に聞かないと何も分かりやしないし、聞けないなら、代わりに答えてくれそうな人に聞くしかないんじゃない?あたしに尋ねるのはお門違い。単に料理作る人が要るってんなら明日の弁当くらい、あたしが作ってやるけどぉ?」
(代わりに答えてくれそうな人、か……。)
 さつきの回答には内心呆れすら混じっていた。本当の事を知ろうとしながら、彼がやっている事はただ惑うばかり。彼女が最もよく知っていて、最も嫌いな彼の悪い癖だ。他人事ながら不安で仕方なかった。
 同時に彼女にはもう1つ気懸かりな事が思い浮かび、彼に尋ねた。
「ねぇ、真中。」
「ん?」
「あんた、本当に東城さんと映画作るつもりなの?」
「えっ…?」
 どうして急にそんな事を聞く?さつきは時々彼には分からない事を口にする。これもいつかの光景とよく似ていた。

「…やっぱ西野さんも合宿来たかったんだねぇ――」
「は?」

 気付けば、もうアルコールは半分以上抜けてしまっていた。
「そのつもりだけど?」
「東城さんとの社交辞令じゃないんだよね?」
「勿論だ!」
「いつ?」
「いつって…具体的には何も言えないけど…でも、いつかは!」
 フーッと大きく溜め息をつくと、さつきは厳しい口調で言った。
今度は(●●●)、いつになるのかしらね。」
 淳平の回答は嘘偽りのないものだ。下積みを重ねている今の彼には、理想の映像(ヴィジョン)こそ在っても実現させる術はない。その理想の映像(ヴィジョン)だって、もっと磨きをかけられる余地はいくらでもある。
 しかし、それらを考えるのはさつきのやる事ではない。“蚊帳の外”だからこそ厳しく言える事もある。
「酷く動揺していたみたいね。」
「え?」
「東城さん。この間、あんたが帰った後、お節介の美鈴があんたのその言葉を話してた。『真中先輩と映画を作るんですか?』ってね。」
「それ…で?」
「美鈴に推されてなのか、本人も納得したのかは知らないけど、真中に真意を問うつもりだと思うよ。あるいは……。」
「……?」
「いや、なんでもない。」
 ただ、問いたいだけではないだろう、さつきは何となくそう感じていた。
 逆に淳平は先ほどから気にしていた疑問をさつきにぶつけた。
「どうしてそんなに東城の事気にしてるんだよ?」
「あたしは東城さんとは性格がまるで正反対だからね。この間言われた。『北大路さんは私にはないモノを持っている。どこか心の中で憧れてた』って。よっぽど楽しかったのかな?東城さんにしては相当酔ってたから本人覚えてるかわからないけどね。正直あたしは人に憧れられるような大層な性格じゃないからピンとこないけど、云いたい事は何となく分かる。正反対だからこそあたしには彼女が見れない彼女の姿(せなか)もよく見える。でも彼女はただ大人しいだけのコじゃない。内では強い情熱を芯に秘めるタイプなんだってこの間気付いたわ。
 真中…あんた受験で東城さんに家庭教師頼んだらしいね。どーゆー経緯(いきさつ)でそうなったのか聞き入るつもりなんかないから聞き役に徹してたけど、『力になれなかったばかりか、自分が足を引っ張った事が一番赦せなくて辛かった』って言ってた。多分その受験の事なんだろうけどさ。」
「でも、あれは俺の実力が……。」
「そうね、傍から見ればアンタの実力不足ってあたしでも思う。でも彼女はそんな瑕一つ許せない真面目すぎる性格。あたしだったらそこまで気にかけないもん。フリーターになろうとかほざいてた勢いだけのあたしだけど、自分の方向(みち)は自分の方向(みち)、他人の方向(みち)は他人の方向(みち)って考える。別にあたしにとっちゃ映画作ろうが作るまいが、大学に受かろうが落ちようが真中が好きな事には変わりなかったし。でもあたしがビックリしたのはそこじゃない。」
「…?」
「これ、なんて質問の答えだったと思う?」
「なんかの質問の答えだったのか?」
「『何が一番辛かった?』。もうあんたの事なんか“時効”だからね。二人とも酔っていたし、冗談っぽく聞いてみた答えがそれ。フツー一番辛い事って想いが通じ合えなかった事それ自体だと思わない?自分がフラれてるのにアンタに必要とされた事があのコは何より嬉しかった。それを裏切った事が辛い、と。勿論束の間でもあんたと居る時間が欲しかったのかもしれない。でも…それ聞いた時、敵わないなって思った。」
「………。」
 それを聞いて酷く胸が痛くて、熱くなる。もう考えないと決めたはずなのに、捨て去ったはずなのに。そうしなければ今は存在していないから。
「でも…だから危うく見えるの。仮にあんたが東城さんとその映画を作ろうとして、何かの拍子につまづいたら、彼女は必要以上に自分を責めかねない。そういう意味では東城さんは心の底であんたに委ねる事にブレーキをかけてる。」
 やや間を置いてさつきが言葉を続けた。
「それに…もしかしたら東城さんはやはり真中の事が好きかもしれない。心にブレーキをかける、という意味では似てるからね。」
「いや…それはないだろう。」
(アイツがノートを渡した意味が、あの王女の言葉(●●●●●)が俺が考えている意味なら……)
「でも保障なんかない。あたしは人の感情は理屈じゃないと思ってるからね。あんたと東城さんがあたし達映研の原動力だったのは認める。皆で賞を獲った時も嬉しかったし。だけど、それが出来るのかとか具体的な事考える前に(…っていうかあたしは具体的な事なんて何も言えないしー)、今でもやるべき事があるんじゃない?東城さんは自分の為に小説を書いてた訳でも、最初から小説家になる事を夢見てた訳でもない。あんたの為に小説や脚本を書いてた。それと同じ事をさせるんだからね。」
「………。」
「だからあんた自身も彼女自身にも、その覚悟が出来ているか、あんたはそれを確かめる必要がある。でないと……、」
 さつきは瞳を閉じて最後に残っていたリキュール系のお酒を飲み干すと、いつにない真面目な表情で語った。
「……?」
「あんたはまた彼女を疵付けかねない。」
「……!」
 彼女にも見える階段の1段目を踏もうとしないで、彼が上を目指しているように見えたのが、さつきには気懸かりだった。それを伝えたかったのだ。そして言いたい事を終えたのか、さつきがまた違う質問をした。第一、彼のこの質問の答えを受け取るべきは自分ではない、と分かっているからだ。
「それで?あたしが真中の明日の弁当作らなきゃいけないのかしら?」
「…そんな気になれるかよ。」
「あら?でもこぉーんなに伝票が溜まってるけど?」
「ゲッ!」
 後先考えずに飲み食いをしていたせいか、バインダーに何枚も重ねられた伝票の1番上の合計欄は1万円を優に超えていた。二人で割っても5,000円は下らない。
「どーするぅ?金欠病患者の真中さん?」
「…おねげぇします。」
「プライドないんかあんたは!」
 すかさず身を乗り出して淳平の頭を叩くさつき。気付けば二人は最初の酔っ払いに戻っていた。
「プライドで飯は食えねぇよ。」
「……だから威張って言うコトじゃないっての。」


 さつきと別れた淳平は翌日、新幹線に乗って京都を後にしていた。
 ついこの間、同じ様な時間に恩師と気兼ねなしに帰ったはずの新幹線なのに居心地が悪い。気晴らしに読みふけようとする小説も、まるで活字が入ってこない。
「俺はさつきに何を求めていたんだろう…?」
 それだけが目的ではないにせよ、今自分が気を揉んでいる事を相談をしようとしたはずなのに、逆にそれを忘れようとして彼女と呑もうとしていたのだろうか、そんな感覚さえ覚える。
「あたしに尋ねるのはお門違い。」
「あんたはまた彼女を疵付けかねない。」
 問いかけた言葉に答えはなく、代わりに打ち出されるはまた別の一人との夢に――
(西野……。東城……。)
 瞑想に答えを導き出したのか、淳平は一言呟いた。
「『悩むより動け』…か。」
 それはかつて彼が初めて味わった決定的な挫折から得た教訓。奇しくもそれは、さつきの性格と符合しているようにも思えた。



←■SCENE-06:『透明な風』 ■SCENE-08:『E.v.o.l.u.t.i.o.n』→