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■SCENE-10:『Division by Zero error』


「ちょ、ちょっと待ってよ〜。」
「あ、悪い…。」
 神社へと続く長い石段を上っている二人がいた。疲れた素振りを見せるつかさの元に先を歩いていた淳平が下りて戻ってきた。
 女性の脚からすれば彼の歩行速度は少し厳しいものがある。しかも淳平自身は困った事にその自覚がついていっていない。以前は強く意識せずとも彼女と同じペースで歩けたはずなのに、今はそうしなければ置いていってしまう。それはここ数年で鍛えられた脚力と体力による違いだろう。それ自体は彼女も理解はしている。
 しかし、つかさにはこれがまるで今の自身と彼との関係を物語っているようにも思えた。
「?何ボーッとしてんだよ?」
「…へ?あ、なんでもない。」
「んじゃ歩こうぜ。それともおぶって欲しい?」
 まるであやされているような素振りにつかさがムッと少し苛立った。
「…大丈夫ですっ!」
 そう言うとカツカツという靴と石がぶつかる事で起きる固い衝突音を立てながらつかさが立ち上がって再び石段を歩き始める。それを続けて淳平が追う。
「あっおい!」
 歩きながらつかさは咄嗟のこの行動に少しだけ後悔をする。
(…おぶってもらえばよかったかな?)
 一方、元気を見せるつかさに淳平は一息ついて安心して見ていた。
(大丈夫そうだな。)
 若干ペースを上げたつかさが昇り終えると同時に、走って昇ってきた淳平が追いついた。少しだけ遠出した電車で寄った駅の近くの神社。ちょっとした高台にある分、昇る階段も少し長く、だけど昇ったその先には広い境内が見渡せた。
 もし数週早かったならきっとこの辺りも混雑していたのだろう。だが、とっくに三が日はおろか正月自体が完全に過ぎ去り、しかも世間の大多数が働いてる平日では…。
「ガランガランだな…。」
「当たり前でしょ。お正月終わって何日経ったと思ってるの?今頃初詣なんて誰も行くわけないよ。」
「ま、俺達だけで独り占めって考えりゃ豪華じゃない?」
「独り占めじゃなく二人占め?まーでもこれじゃ雰囲気ゼロだケドね。」
 確かにここには人もいなければ屋台もなく、人混みや囃子の雑音もしない。辛うじて正月らしいものが在るのは社務所とそこで売っているお守りや絵馬くらいのシーズン共通モノだ。正直、寂しい光景である。
「じゃーまー、早速お賽銭入れて参拝すっか〜。」
「善は急げだね。」
 とは言うものの、石段を昇ってきて疲れたせいもあってか二人は割とゆっくりと、しかし真っ直ぐに賽銭箱へと向かう。
「っと、賽銭賽銭っと。」
 淳平はバッグから財布を取り出すつかさの姿を一際注目している。左肩にかけたバッグを前腕まで下ろし、右手で二つ折りの財布を取り出しては十円玉を取り出す。何も気になる所などない。追っている内に淳平の視線はつかさの手とその手にある十円玉に向かっていた。
(昭和六十三年……唯の生まれた年か。)
 そんな他愛もない事を確認しながら視線を向けていると、つかさがそれに気付いて返してきた。
「…十円玉がそんなに珍しい?」
「へ?」
「それとも欲しいとか?」
「あ、いや……。」
 つかさの目には軽く呆れの色すら浮かんでいる。いくら生活がギリギリだとはいえ、十円玉を物欲しそうに見つめるというのは…。淳平は逆に要らぬ誤解を反射的に否定した後、そそくさと同じ様にズボンのポケットから財布を取り出そうとする。ただ、懐具合に気を配る事自体は今の彼にとって最優先課題である事には変わらなかったりする。
(なるべくなら出したくないっつったら罰当たるよな…流石に。あ、でもこれだと丁度いいか?そうだ、西野にも…。)
 五円玉を取り出す淳平を見て、呆れまじりのつかさが更に呆れたように彼の財布に手を出してきた。
「淳平君五円ぽっち?せめて十円くらいは出して…、」
「え?ちょっと待っ!」
「あ。」
 チャリンチャリン、カラカラカラン…。
 なんとも小気味良い音と共に、彼の財布から何枚もの日本国硬貨が落ち、吸い寄せられるように賽銭箱の中へ。同時に、サァーッと淳平の血の気も引き、賽銭箱の中へと吸収されるかのようだった。
 二人は口を「あ」の発音で開けたまま、賽銭箱を見続けて固まっていた。
「……………………。」
「……………………。」
(お、お金入るまであと3日あるのに…、あるのに…、あるのに…。)
 淳平は俯いて固まったまま動かない。
「え、えーと…。」
 今度はつかさの方が気まずくなる。気まずい。とても気まずい。お金の問題は切実だ。親しき仲の親しき雰囲気も吹き飛ぶほど。
 つかさがしばらく何も出来ないままいると、淳平は驚く行動を取る。なんと取り憑かれたかのように黙って賽銭箱に手を伸ばし始めたではないか!
「ちょっと淳平君やめて!みっともないから!謝るから本当!」
「アハハ〜…3日分の生活費〜。」
 淳平は“何か”が吹っ切れてしまっていた。
「わぁ〜っ淳平君ー!気を確かにしてッ!」
 しかし、賽銭箱の木の隙間などあってせいぜい5センチ程度。深さは1メートル近く。とても手が入るような代物ではない。
 当然ながら、諦めるしかなかった。
「あ、あたしもお賽銭百円玉にするから。」
「いいよ、んなの。」
「もぉ〜いつまでイジけてんの?」
 原因を作ったのは自分とはいえ、流石にいい加減シャキッとして欲しい。凹むとどん底一直線の性格はなんとかならないものだろうか。
 だが、昔と違ってそれを隠そうとしない事にほんの少しつかさは安心もしていた。
「ハァ………。」
 一際大きい溜め息をつくと、淳平はそれに全て吐き出した、と言わんばかりに声を挙げた。
「うっしゃ!しょーがねーし参拝すっか。」
「よろしい!」
 本当はつかさはそんな台詞を出す立場ではないのだが、ごめんね、と気を遣う必要はついさっき短い時効を迎えている。その妙な転換ぶりが少し愉快に思いつつも、彼女らしい、と思う淳平だった。
 ガランガランガラン…。
 長い綱を握って廻すように揺らすと、ほんのちょっと鈍さが混じる低音の鈴の音が聞こえてくる。
「何しろ934円のお賽銭だからな。ご利益たーっぷり期待しますよ!っと。」
「呆れた〜。財布に入ってる小銭の金額覚えてるなんて。」
 それは繰り返すようだが、それだけ彼にとっては切実という事である。参拝を終えるとつかさが再び話しかけた。
「昔はそんなにキビキビしてない感じだったよねー。」
 繰り返すが、キビキビしてない淳平にとってすら、切実という事である。しかし気にせずつかさが上目遣いにからかうように顔を覗き込む。淳平は黙ったまま思わずドギマギしてしまう。
「ま、それだけの集中力とか細かさがあったら色々期待しちゃってもいーかなぁ?」
 手を頭の後ろで組み、傍を離れるつかさのその少し含んだ物言いに、すかさず淳平はその意味を問い質した。
「期待って?」
「ン?できたら小銭の数覚えてる記憶力とか集中力とかあるなら、あたしにもっと向けてくれたらなーって。」
「それなら誕生日だって知ってるし、好きな食べ物だって覚えてるよ。9月の16日生まれ。好物はチェリーパイだろ?…あれ?アップルパイだっけ?」
 ガクッ。好きな人の事ならその程度覚えていて当たり前だ。
「…チェリーパイだよ。どっちも美味しいケドね。ってそーじゃなくて、それが集中して記憶してるモノって答えてる辺り?それがもー0点かな。」
「じゃあ、マニアックな所じゃお風呂でまず最初に洗うのは髪の毛…イデッ!」
 おどけたような言い草も、終わらぬ内につかさの鉄拳が淳平の顔に見舞われる。
「もーっバカ!どこでそんな情報仕入れたんだ!?そんなの事を外で言う辺りも0点なの!もーちょっとデリカシーってゆーかさ、さっきだってついつい一人で行っちゃうし。本当は初詣だって今日じゃ…。」
 そこでつかさは続けるのを止めた。初詣は初詣らしくお正月に行きたかった、というのが真意だろう。今はデートも辛うじて月1回、2回あれば御の字という状態である。
 しかし、それは現在の彼の立場からすれば無理からぬ事だった。淳平は近頃、家で寝る事すらままならないと言う。今日だって、仕事終わりで駆けつけ、この後も仕事があるのに会う時間を作ってくれたのだ。彼は何も語らず、気丈に振舞っているものの、その頑丈になった体でさえ疲労に悲鳴を挙げているのは想像に容易い。並大抵のしんどさではないだろう。現に彼の目の周りのクマが今日も取れていない。昨日も取れていなかったろうし、明日もその先もきっとずっと取れてはいないだろう。
 それに不満があるなら別れてしまえば良いだけの話だ。そうすれば彼はこの今会っている時間も休息に充てられる。全て承知の上だ。だから苦ではない。そして、彼が夢を実現する姿を見たいのだから。
 一方、「初詣だって今日じゃ…」の言葉で、逆に淳平は彼女の意図が全て理解していた。
「悪り。判ってるよ。なるべく暇作るって。」
「うん、ごめんね。ちょっとワガママ言ってみたかったんだ。」
 もっと気を配って欲しいと求めたはずなのに、今は気を遣わせてしまったと自分が気を遣っている事に、恐らくつかさは気付いてないだろう。
 その一方で、淳平は彼女の"期待"が、ある意味ではありふれていたもので、彼の"良い予想"の範疇であった事に安心をした。ワガママを言われるのもある意味では、好かれている証拠であるとも言える。まるで彼にはもっと重大な何かに気付いて欲しいという事なのだろうか、と少しの不安が過ぎっていたからだ。
「あ、いけない。もう電車来る時間だよ。ほら、17時。」
「じゃあ帰るか。」
 今度は、つかさの歩幅に合わせて石段を降りられた。


 神社から最寄り駅に辿り着くと、すぐさま帰りの電車が来た。
「おお〜。」
「グッタイミング!」
 しかし、切符を買っていたら下手をすると乗り遅れたかもしれない。淳平とつかさは行きの間に帰りの分の切符を買っていたのだ。しかも934円という太っ腹なお賽銭を捧げてこれから明日(より正確に述べるならば、ATMでの引き出し手数料が取られなくなる午前9時)まで無一文で過ごす彼にとってはまさに、"備えあれば憂いなし"であった。
「あーっ寒ぃ〜。」
「あったかいねー。」
「おっ、ここ空いてる。」
 寒さに身を竦めた二人にとって、暖房の利いた車内は快適そのもの。さらに夕方のラッシュが始まろうという中で、二人分の席があるというのはかなり幸運といっていい。
 揃って着席し、揃って一息つく。ホッとする、何気ない一瞬の幸せ。そしてそれを等しく感じられる事の幸せ。
 しかしそんなひと時も今回はもうすぐ終わってしまう。時の流れは時計の針でも、過ぎ往く窓の景色でも、目に見えて感じられる。
「ねぇ、今度はいつ会える?」
「むぅ〜… … …正直わかんねー。」
「じゃあ少なくともいつまでは無理?」
「2,3週は睡眠2時間が続きそうかな。その後も続くかもしれねぇ。ははは…。」
(…!?)
「ちぇ〜つまんないナー。2月頭までは無理…と。」
(どういうことだよ…?)
 ハードスケジュールを伝えて自虐的に笑った後、淳平は再び、その違和感に遭遇した。それも以前より鮮明に。
「…西野って、左でも書けるのか?」
 スケジュール帳に恐らく「2月頭まで無理」とでも書いたであろうつかさに問いかけた。一瞬、恐ろしい程の緊張の糸が張られて、すぐに解かれたように思った。
「……そうだよ?あたし、小さい頃左利きで矯正されたんだ。だからどっちでも書けるし、今でもたまに左利きになるクセがあるの。」
「………。そりゃまた…“集中力とか記憶力とか”が足りなかったな。俺にもまだ知らない事があるって事か。」
「ま、そーゆーコト。」
 澄ましたように言った後に見たつかさの笑顔は、まるで作り物や偶像のようにも見えた。


「じゃあな。」
「じゃあね。仕事頑張って。時間できたらメールしろよっ。」
 たまに出てくる男言葉。やはり彼女は西野つかさに間違いない。それが判ると安心できた。でも次には「何故そんなことで安心をしているのだろう?」と不安が襲ってきた。
 別れる予定の駅に到着し、つかさが降りたホームからこちらに手を振っている。彼女は乗り換えて泉坂へ。自分はこのまま東京へ。駅から再び出発して彼女の姿が見えなくなると、淳平は自分のスケジュール帳を開いた。
“西野つかさ 泉坂 映画”
 思いついた身近な言葉を左手で書いてみる。書けない事はない。だけどミミズがのたくったような字とはまさにこの事。行をはみ出し、斜めにいがむ。少なくとも淳平にはとても普段から器用にやれるものではない。
「俺は…西野のあんなクセ、知らない。」
 高校時代、中学時代…記憶の糸をいくら紐解いても、彼女が左手で食事をする姿も、左手でペンを走らせる姿も、何処にも無い。…無い!
 割り切れない疑問が、さながらエラーを引き起こすコンピュータプログラムのように、淳平の頭の中で、同じ演算を繰り返し繰り返し実行させている。
「あんなクセ、…知らない。」
 そう繰り返すと、淳平は前髪を上げてうなだれた。
「何なんだよ、これ……。」
 冬の日は落ちるのも早い。辺りはすっかり暗くなっていた。しかし、これから撮影が待っている。そういう仕事を自分が選んだのだから何の文句も言えない。だが、それでも頭を切り替えられそうもない。淳平は気晴らしに携帯電話を取り出した。
(…“新着メール 1件”?タイトルはなし、このアドレスは知らないな…登録してないのか。)
 だが、数時間ぶりに取り出したそれは更に彼を驚かせることになる。そして次にボタンを押した瞬間、そのメールが誰のものかも彼には瞬時に判るだろう。
「………!!!」


「from:call_name_future@qmrweb.ne.jp
sub:
本文:ノートを返してくれる?」


"真中に真意を問うつもりだと思うよ。"――




「お疲れ様です。それじゃ。」
「はい、じゃまた明日。」
 自宅の自分の部屋でいつものように静香を見送ると、綾は携帯を手にとってじっと見つめていた。
「……………。」
 表情はまるでなく、しかし、これから起こる事を予感しているかのように、ただ静かに佇んでいた。



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