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■SCENE-15:『疑惑の浮遊』


 “ペタペタ…”
 顔元に妙な感覚を覚える。特に鼻の片方は何かで塞がれているかのようで、淳平は目を開けた。
(フガ…何じゃい、これは……!?)
 薄暗く青白い、夜明け前の光が部屋を包む中、目も段々と慣れてきた。
 淳平は上体を起こして、顔元のそれ(●●)をどけてこう呟いた。
「唯の足か…ったく。」

「おい、唯!おまえも早く起きないと―――」
「ふあ…。」
「ぎゃーーっ!!!!」
「ん〜〜いま何時…」
「なんでオマエ俺のとなりで寝てんだよ!!!」


(昔から、本ッッッッ当にコイツ寝相悪いよなぁ……。)
 呆れる淳平だったが、本気で腹を立てる訳もなく、何事もない普通の事のように(とても普通ではないのだが)目を擦る。
「ううん…お父さぁん……。」
(……寝言か。そーいや、唯は一人っ子だからな…って俺もだけど。)
 ムクリと一人起きてトイレに赴いた後、朝ごはんの仕度にかかろうとする淳平。
(やっぱナンダカンダで、寂しいのかなぁ……。)
 と、そう推察しながら電子レンジでココアを温める。まだまだ冬の寒さが残る3月には丁度良い。と、レンジの横で冷蔵庫から食パンを一枚取り出すと、再び唯の寝言が聞こえてきた。
(お母さぁん…うーん、じゅんぺー……。)
「ウン?」
(呼んだ…?いや、寝言でか。)
 ゴォゥンゴォゥンという作動音。さして大きくない音だが早朝の静寂が体感的にその音を際立たせる。その後、“チーン!”というお決まりの音をレンジが奏でると、一際大きな声で唯が寝言を言い出し、淳平は驚いた。
「ああん、ダメだよぉじゅんぺー、何やってんだよぉ〜それはお母さん!唯のお母さんだからぁ〜!」
(何のユメ見てんだッ!?)
「じゅんぺー、恥ずかしいからパンツ履いてきてよ〜お願いだからぁ〜!!」
(オマエが言うな、オマエが!)
 朝ごはんと身支度を整え、最低限の荷物を持って淳平は唯を残したまま、玄関に鍵をかけていつものように撮影に参加する。
 この日の撮影は朝7時から夜7時までの12時間。勿論これは予定であり、押しになる事など日常茶飯事である。合間に若干の休憩は入るが、助監督である彼には使い走りのような雑務もこなさなければならない。それでもまだ半日というだけ「今日は軽いな」とすら、淳平は思った。

 この日も結局、撮影が終了したのは夜の9時で、帰宅すると10時はとうに過ぎていた。春先の時期とはいえ、体は汗でベトベトで、すぐにでも湯を浴びたい。
 シャツを脱ぐと、淳平は部屋で寝ている唯を見た。
 あまり深く聞く暇もないので実態はよく判らないが、衣服が違う所を見ると、そして既に湯が張ってあって二番風呂であることを考えると、彼女も日中どこかで自らの仕事をこなしていたのだろう。
 しかし、それよりも淳平が思うのは――
(しっかし、改めて考えても、すっげぇ状況だよなー。)
 一通り体を洗いながら淳平は続けて思う。一人きりのリラックスできる空間だからか、思考も図らず円滑だ。
(マッタク、何だって俺が唯と同せ……ルームシェアリングなんだよ。何でアイツもあんな無防備なんだか。兄妹みたいな関係っつっても一応ハタチ越えた男女だぞ?まーそんだけ信頼されてるって事なんかもしれねーけど、大体、居たとしても本来ならあそこに居るのは(オマエ)じゃねーだろっつーの。)
 と、そこでシャワーの栓をキュッと閉じると、濡れた前髪を垂らし、淳平は独り言をした。
「……いや、正直、今のアイツは……。」
 ずっと引っ掛かったまま、忙しい日々に埋もれて解決できていない事が、彼にはまだあった。
 しばらく前にもつかさと会ったが、やはり状況は変わらない。何かを隠し続ける彼女に、今度は多忙を理由に何も出来ない自分。一緒に居て晴れる気持ちも、段々と内心では小さくなってゆき、笑顔を作ろうとしてしまう。
 体を拭いてトランクスを履き、タオルで顔を拭いて、鏡を前に自分の顔を見つめると、苦々しい表情だった。
「結局、今日も行けなかったか……。今度は久々に休みがあるし、その時にするか。」
 と、携帯電話を取り出してカレンダーを見ようとするが、そこには「着信あり」の表示があった。「何用だ!?」と淳平は一気に仕事モードに切り替えたが……。
(何だ、外村か。)
 相手はヒロシだった。タオルを首に巻き、落ち着いて折り返し淳平は電話をかける。
「おーっす、何か用か?」
「おお〜ッ!!ヤっと出たカぁ〜オィ〜〜!!!!」
 無駄に大音量で呼びかけるユルい声。一発で判る。
「何だ?酔ってんのか?」
「酔っテねぇよぉ〜〜〜!!!」
「…酔っ払いは皆そう言うんだよ。それより用は…。」
 さっさと用件を済まして寝たい淳平だったが、そうはいかないようだ。
「小宮山に代わルぜ〜〜〜!!」
「おい!」
 遮られて思わず淳平も声が大きくなる。しかし、代わって出てきたのはもっと大きな声の主だった。
「おーーーーっす!!!久しぶりーーーー!!!!!」
 思わず淳平は携帯電話を耳から離し、呆れながら明後日の方向を見つめた。
「うるせーんだよ!!!」
「ううん…」
(!?)
 さらに荒げた自分の声に、唯が返事をした。起こしてしまったか?
「悪ィ!悪ィ!今日でちなみちゃんのアルバム発売でインストアイベントも終わったんでなぁー!打ち上げしてんだよぉー!!」
「へーへー、それはおめでたいこって。」
「イェーイ!お久しぶりでぇっす!真中さぁん、ちなみのアルバム買ってくれましたぁ〜!?」
(今度は端本かよ……。)
「ああ、買った買ったよ(まだ予約したの取りに行けてねーけど)。」
「どぉでしたぁ〜?ちなみの美声〜。」
「ああ、良かった良かったよ(まだ聴いてねーけど)。」
「あー、真中さん本当は聴いてないでしょー?!」
(チッ……なんでそんな事だけ鋭いんだか。)
「ちゃんと買って下さいね〜〜〜最低10枚!」
「(10枚…反応する気も失せるな。)……へーへー、早く外村に代わってくれ。」
「はぁ〜い!!」
「…おいっすー、代わったぜー。」
「さっさと用件言えよ。俺、明日も早いんだぜ?」
「あー悪い悪い。ちょっと淋しくて真中きゅんの声が聴きたくなったの♥」
「……切るぞ。」
「あー待て待て待て!冗談だよ。」
「…美少女撮影が趣味のお前が言ってもエラく寒いジョークに聴こえるな。で?」
「あー、そうそう、久々に飲まねぇか?ウチも今度でちょっと一区切り着いたからさ、俺とお前と小宮山で、映研“野郎の会”ってな。」
「外村ー、お前まだ酔ってるかー?それとも頭打ったか?」
 ヒロシらしからぬ意外な申し出に淳平はこう返事したが、彼の提案は至って真面目だった。
「お、失礼なヤツだなー。たまにゃあ女共(アイツら)抜きってのもいいかなーってさ。ま、あまりそんな大人数で集まれないからってのもあるけど。今度の土曜辺り、何とかならねーか?」
「今度の土曜は……?……。」
 呟きながら、淳平はカレンダーに目を配る。その日は「午後からオフ!」という文字とそれを囲うマルが勢い良く書かれている。
「いや……無理だわ。」
「そっかー、やっぱ無理かぁ。撮影忙しそうだもんなー。何だっけ?今参加してるっつってたの。『1000年の誓い』とか言う…。」
「あ、うん…まぁな。」
 少し申し訳なさそうに声のトーンが落ちる淳平の後ろで、突然叫び声が聴こえた。
「唯、最終回出番なかったー!!」
 ブッ!と吹き出し、何事か!?と淳平が振り返る。
(…は!?ね、寝言……?!)
「でもでも、誰かさんよりはー!!」
(『最終回』って…どんなユメ見てんだよ、意味わかんねーし。)
 電話の向こうが騒がしい事でヒロシが淳平の部屋の様子を訊いてきた。
「ん?何?誰かいんの?」
「ああ、気にすんな。唯の寝言……。」
「………………………………え?オマエ今何つったの?」
「あぁ〜?だ〜か〜ら〜唯の寝…、……!」
 淳平はハタ、と、ようやく自らの失言に気付いた。
(しまったぁああああ…………!!!)
 ついに、そして、つい口を滑らせてしまった。しかも最も面倒な事になりそうなこの男(ヒロシ)に……!
「え?何?お前、唯ちゃんと住んでんの?え?同棲?同棲?…えぇ〜?」
 ニヤニヤした口元で興味津々、といった態度が電話越しでも判る。はっきり言ってムカつく。
(あぁ〜〜〜〜もう〜〜〜……!!)
「ルームシェアだルームシェア!大体アイツが勝手に押しかけて来たんだよ!」
 ものは言いようとは言うが、本質が変わらないのでは意味は無い。鋭い指摘がヒロシから飛び交う。
「でも、一つ屋根の下である事には変わんないんだろ?お前そんな事してていーの?兄妹みたいな関係っつってたけど、も一応ハタチ越えた男女だろ?やー修羅場修羅場ー!」
「るせぇっ!お前がご期待するーな展開はねーよっ!!」
「なぁんだ、つまんねー。」
 と、そこで「何か言ったか?」と言おうとするところで再び後方から叫び声が聴こえた。
「じゃあ唯って一体いちごの何ーーー!?どういう存在なの!?」
「だぁああっ、もうウルセー!!何だよ『いちご』って!?」
「うーん、よくは分からんが俺の個人的な意見を言わせて貰えば、マスコット的存在でないかい…?」
「オマエも答えんでいい……。じゃあな、切るぞ。」
「おう、まーまた暇があれば。」
「ああ、悪いな。」
「おう、唯ちゃんにもよろしくー。」
「へーへー。」
 プツッと電源ボタンを軽く押し、携帯電話を切ると、フーッと一息ついて淳平は思った。
(もー…疲れてるっつーのに騒がしいモンだな。……今度の土曜か。)
 淳平は再びカレンダーを見て思った。
(悪いな外村…、東城(アイツ)との事もひとまずケリ着けたんだし、いつまでも手をこまねいてらんねーし…。)
 再び携帯電話を操作して、電話帳を開き、「は行」の項目をスクロールする。そうしたかと思えば、パッと放り出して、彼もまた布団に身を委ねる。
「ったく、寝相が悪いだけでなく寝言も出るよーになったのか?こいつは……。」
 少し横を向くと、眼前には天国気分とばかりに口元はにやけ、気持ち良さそうな唯が寝息を立てている。彼女の顔と、先ほど電話で久々に聴いたヒロシ、力也、ちなみらの顔も思い浮かんだ。
「ま、いいか。」
 そうしてまた、淳平は翌日の仕事に向けて深い休息に入るのだった(途中、また唯の寝言で一度起こされた事を除けば)。


 2010年3月20日土曜、淳平は予感していた。この日、自らが起こす行動によって特別な日になることを。しかし、この日は彼の予想以上に、淳平にとって忘れ得ぬ衝撃的な日の一つとなった。
 この日は前日未明から徹夜(オール)での撮影で、昼過ぎに淳平は帰宅した。
「あーつっかれたぁ〜。」
「およ?おかえり〜。」
「フゥァア〜。あれ?これからどっか出かけんのか?」
 唯は、その体に似つかない大きな旅行鞄になにやら色々と詰め込みながら身支度をしていた。大きな欠伸をして、開かない瞼から涙を滲ませながら、淳平が尋ねる。
「うんー。次行くトコの下見で1週間ほどー。」
「ふーん。あ、じゃあそろそろウチ出んのか?」
「……ごめん、帰ってきて最終計画(プラン)練りこむから5月までは…。」
「ふーん。さいでー。あー喉渇いた。お茶お茶。」
 申し訳なさそうに語る唯に、眠気で思考回路が麻痺しているのか、淳平も何も言わずに冷蔵庫からお茶を取り出す。
「あーっ生き返るーっ!」
 コップに入れた麦茶を実に美味しそうに飲み干す淳平。
「んで?もー出るのか?」
「うん、よいしょ!っと。4時には飛行機出ちゃうし。」
「ゲッ、マジかよ…。」
「…何?その反応。まぁた唯に起こしてもらおうとか思ってたりしてた訳?」
「いーだろ別に。居候してんだしそれくらいやれ。」
「やーれやれ、淳平もうすぐ24でしょ?仮にもシャカイジンとしてそれはどぉかなぁ〜?」
 両手を広げて呆れたように笑って言う唯に、ムッと淳平も嫌味に反論した。
「寝付きと寝起きが良くても、寝てる最中が酷いヤツに言われたかねぇなぁ〜?」
「フーン。唯、そんな煽りに乗る程、ヒマじゃなーいの。あれ?午後ってオフじゃなかったっけ?ま、いいや。じゃねー、頑張って起きなよー。」
 バタン!とせわしなくドアを閉めて出てゆく唯に、淳平は聴こえるはずもない捨て台詞を吐きかける。
「もう帰ってくんな!」
 一人きりの部屋に戻り、途端に緊張が緩む。淳平は後ろ手を組んで枕にしながら、折り畳んである布団にドサッと上半身を預けた。
「っちゃ〜〜っ、変に時間空いちゃったなー。…今寝たら24時(てっぺん)辺りまで爆睡しそうだし…。……………。」
 と、淳平は眼が開いて体が動く内に、とムクリと体を起こしてテレビに向かい始めた。
「しゃーない。少しでもネタ探しと勉強しとくか。」
 そう言いながら、同時にDVDをセットし始めた。同時にノートとペンも手元に置いている。こうして彼は余裕があれば独自で研究している。貪欲な姿勢を忘れない。
「っと、…こないだ録った『PERFECT FUTURE?』って何処入れたっけ?ん?……あ。」
 目的の映画を探そうとしている内に、淳平はテレビの上に乗せていた本に気付いた。
「そーいやずっと読めてなかったなぁ…。」
 バツが悪そうに頭を掻きながら一月前に「読みきれてないけど買った」と本人に言った綾の小説を手に取る。
「うっし、予定変更ー。こっち読み切るか。」

「フーッ。」
 パタン!という小気味の良い音と感触と共に、綾の小説を鼻先で真っ直ぐ閉じる。
 以前の作品の中には、一部、彼は辞書を片手に彼女の小説を読んだ事だってあった位だが、今回の作品は随分と読み易いものだった。実際世間の評も淳平の印象とさして大きくは変わらない。
 だが、それでもその魅力的な人物設定と心理描写には強く惹き込まれずにはいられない。綾の小説は基本的にそうだ。登場人物が話を引っ張ってゆき、その心の機微が読者の琴線に触れる。例えば、ドラマで例えるなら時計を見て45分位で先の展開が読めたりもしてしまうが、そんな隙を許さない程夢中にさせ、気がつけば読み通していた、という感じだ。
 事実、今回読み残していた、それなりにあるおよそ全体の2/3程の分量も、淳平の体感時間ではあっという間だった。
 そしてそろそろ出発の時間が差し迫っていた。偶然とはいえ驚くほど都合が良い。淳平にとって、無駄に一人で考える時間は短い方が良かったからだ。
 最寄り駅に辿り着いた淳平は切符を買おうとするが、今だに乗換えと値段確認の為に路線図を見上げる。それもそのはずだ。ここから故郷の街に帰った機会を数えるのはまだ片手で足りる程度である。
(一ヶ月ぶりか…。)
 丁度、その約一月前に帰った時の事を思い出す。抱えきれないほどの荷物と希望を、綾に貰った。
 そうとも、怖れていても仕方ない。踏み出せばそこに道が開ける。だが、今回はその踏み出した方向(さき)が正しい選択なのか。回り道をしているようで、淳平にはまだ少し迷いが残っていた。
 しかし、今更戻る訳にもいかない。だから出発の時間まで考える時間はむしろ要らなかった。

「聞けないなら、代わりに答えてくれそうな人に聞くしかないんじゃない?」

(どーせ1時間したら判る事だ。)
 携帯を取り出して時間を確認してすぐさま収めると、そう考えながら淳平は車両のドアから景色を見続けていた。

 泉坂駅に到着して、南側出口から出る。
 表通りを少し歩くと目的地は近い。と、そこで淳平はある事に気付く。
(あ、館長ン所にも顔出しといた方がいいか?)
 しかし、生憎と彼が道から覗いてみた所、どうやら休みらしい。その場所とは、「テアトル泉坂」。彼は高校時代、一時期通い詰めて昔の良作映画をよく見たという。いわば高校が彼の第一の青春の舞台だとするのなら、ここは第二の青春の舞台というところか。運営しているのは大昔に彼と同じ映画製作の夢を見ていた「館長」と呼び親しまれていた老人だった。
(休みか…って道楽でやってるとはいえ土曜なんだから開けろよ館長……。まぁじゃ、いっか。)
 淳平はそこからまた歩いたかと思えばすぐ近くで歩みを止めた。近くどころかたった3軒先である。しかし、そこが彼の目的地。
“パティスリー鶴屋”――
 ドアを開け中に入ると、淳平は店員と思しき店番をしている年老いた女性に話しかける。
「あの…連絡していた真中ですけど。」
「んあ?」
 欠伸をしていた老女は一呼吸置いて驚いたように返した。
「あ、あーあーあー……ヒェーこりゃたまげた。あらまぁ、随分大きくなって。」
「……………それ、何十人に言われたか知れないっす。…お久しぶりです。」
 少し微笑みながら淳平が挨拶すると、老女は彼が知るマイペースぶりを発揮し始める。
「そーいや、ウチの跡継ぎにつかさちゃんが来てくれるはずだったのにアンタのせいで台無しじゃよ全く!どーしてくれるんだい!この!この!」
「いて!いて!んな無茶な…。」
 勿論、二人とも冗談である。
「あの…それで、日暮さん、おられますか?」
「ああ、龍一に会いに来たんじゃったっけ。この間連絡先教えたんだったのう。おーい、龍一〜!お客さんじゃぞーい。」
 老女が厨房に向かって呼びかけると、奥から「ああ、裏口から入ってくれー!」と渋みのある男性の声がしてきた。
「悪いね、裏口から入りなおしてくれんか?分かるか?」
「ええ、大丈夫です。あ、それじゃ。」
 軽く会釈をして老女と別れ、淳平はその裏口に向かい、ドアをノックする。「どうぞ」という先ほどの男性の声の後に、「失礼します」と言ってドアをガチャリと開けて頭を垂れて挨拶する。
「お久しぶりです。」
 そう言うと、その大人の色香を漂わせる男性・日暮龍一は椅子から立ち上がり淳平に向かってきた。
「久しぶりだな、ボウズ。……にしても随分デカくなったな。俺と変わらないじゃん。」
「……………それ、ばーさんにも言われました。」
 会う度にこの反応、さすがに淳平ももう諦めざるを得ない。
「今日は日暮さん居るのに女性客とかいないんですね。」
「ありゃー帰国する度にばーさんが宣伝しまくってるからだよ。別に仕事に従事するならそれでもいいんだが…、まぁだから今日はばーさんにだけは連絡しないで来てやったんだ。」
「すみません、わざわざ。」
「あー気にするな。まぁたまには忙しい店でゆっくりするのも悪くない。まぁそこ座ってくれ。」
「失礼します。」
 勧められるままに用意された椅子に座る。すぐさま本題に入りたいところの淳平だったが、久々に彼を見た龍一には新鮮だったのか、彼の方から話をふってきた。
「ところで…聞いたよ。おめでとう、夢だった映画業界に入れたんだってな。ボーズ…ってボーズって呼ぶのももう失礼か。」
「あ、ありがとうございます。」
 少しだけ意外だった。淳平にとって龍一は「かっこよい男性」と受け止めている一方、僅かばかりでも彼の方が自分に注目していたとは夢にも思っていなかったからだ。何よりも接点が少ない。高校時代に彼から指導を受けていたつかさを通じての“知り合い”程度の関係というのが正しいだろう。
 しかし、そんな程度の関係であっても相手の事をよく知っている。この細やかさこそは名パティシエらしい、日暮龍一の評判なのだろう、と淳平は思った。
 彼はこの界隈ではかなり名の知れた天才パティシエで、コンクールの受賞、本の出版などが示す通りにその技術は高く、パティシエという姿とは裏腹にワイルドな風貌が若い女性にも大人気であった。勿論そういった“ステータス”だけではない男前である事は、先の通り、淳平も知っている。高校時代の彼からすれば、龍一は完璧な「大人の男性」に映って見え、ある種の憧れもあっただろう。
「しかしなかなか大変なんじゃないか?」
「ええ。かなりいい様にこき使われまして…。」
 ただ、申し訳ない、と思いながらも淳平は早く本題に切り出したかった。悪い予感、いや予想は早く把握するか払拭してしまいたかった。
「あ、あの!すいません…。お時間取らせちゃって。じ、実は…。」
「おっと、悪い。世間話をしに来たんじゃなかったな。ま、落ち着け。」
 龍一は話を切り上げたかと思うと、振り向いて立ち上がりコーヒーを淹れている。
「すまんな。ケーキ屋だってのに淹れたてじゃなくて。砂糖とミルクはどうする?」
「あ、じゃあ…両方、砂糖は1個で。」
「よし。はいどうぞ。」
 龍一はソーサー(受け皿)にコーヒーを入れたカップを載せて淳平に振舞う。互いに一口飲むと、龍一の方から切り出した。
「……ボウズ、いや淳平君か。」
「ボウズでいいっすよ。」
 一度定着した呼び方を改めるのは少し気恥ずかしさと、そうした場合の相手の受ける印象を考えてしまう。慣れなさそうに言う龍一を少し気遣って、微笑いながら淳平はそう言った。むしろ自分にとってもこう言われる方が自然でいられたからでもある。
「そうか、じゃあボウズで。で、改まって俺に話ってのは何だ?」
「……………。」
 つい沈黙してしまった。自分が訊きにきたというのに。次に龍一が彼を気遣って言葉を紡いだ時、淳平はそう思うだろう。
 だが、それ以上に彼の声が重い印象を受けた感触の方が強く残った。
「……大方、予想はついている。つかさの事だろう?」
「……………。」
「まぁ、何処から訊きたい?俺が答えられる範囲なら答える。」
「……西野は、アイツはパティシエにな…いえ、」
 ずっと、はぐらかされている。
 予定より早い帰国、料理を避ける様子、時々不自然に出てくる覚えの無い左利き。
 そして、未だに彼女が今何をしているかも知らない。
 これらの点と点を線で結ぶと見えてくるものは……。
 少し俯いて苦虫を噛み締めたような表情の後、淳平は龍一の顔を真正面から見上げてこう言った。
「……西野(アイツ)に何が起こったのか、全部教えて下さい……!」



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