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■SCENE-16:『IMITATION CRIME』


「あれ?っよっ…。」
 洗面所の前で頬を覆うように伸ばしている髪をつかさが弄る。この時、かつて彼女を知る者は一部を除いて誰もが想像もつかなかった(それは淳平も例外ではなく)、しかし一般的には全くごく普通なスーツを着ていた。
「ん?枝毛?」
 脇では、知り合いと思しき女性がつかさの仕草を気にする。
「…みたいです。」
「へぇ〜西野さんかわいいのに枝毛なんかもあったりするんだ。」
「あまり特別美容とかに力注いだりはした事ないので。エステとかも行った事ないですし。」
 敬語である所からも、相手の女性は年上で、目上の人間である事が判る。
「そーりゃ行く必要なんてないでしょ。そんだけ可愛いけりゃ。23には見えないもん。」
 意地悪く言いながら彼女は蛇口から水を出して手を洗う。
「でも篠…いや、晶さんも今年で31には見えないですよ。」
 確かに、傍にいる女性は明らかに年上と判るが、30代とは驚く容姿である。それどころか何処か少年っぽい雰囲気を漂わせている。
「ん〜ボクも他人には言われるケド、色々と出てくんだって、年食うとはっきりさ。カラダも疲れやすくなるし、ココロもね。若い時はあんだけ一生懸命だった事も、いつの間にか、その時の感覚も失くして、記憶だけが抜け殻みたいに残っちゃって。」
 嫌に現実的な話だとつかさは思った。
「…もる…、今何処に……?」
「……え?」
「あ、いやゴメン。ボク独り言してた?ああ、それよりもさ、ウチに来てどれ位経ったっけ?」
「半年と、ちょっと…ですね。」
「どう?仕事はもう慣れた?」
「はい…まぁまぁ。」
「最初はあんま戦力にならなかったけど、西野さん呑み込み早いからもう一人前ダネ!」
 そう言って、ウィンクをしながら晶はつかさの胸に右手をコツンと当てる。
「ありがとうございます。」
 礼を言うつかさに晶は一言加えた。
「でも、枝毛が出るってのはストレスあるのかもね。あんまり無理もしないで、困ったらボクに相談しなよ。最近疲れてるよーにも見えるしさ。あ、それとも西野さんもそろそろボクと同じ年増組の入り口に差し掛かってるのかなぁ〜?あ、もうこんな時間だ。じゃあお先〜。」
「はい、お疲れ様です。」
 時計を確認してそそくさと外へ出る晶。つかさは微笑って見送ると、誰もいなくなった洗面所でその笑顔を止めた。

(あんだけ一生懸命だった事も、いつの間にか、その時の感覚も失くして、記憶だけが抜け殻みたいに残っちゃって。)

 心の中で、先の晶の言葉が反芻される。
(……あたしは今、抜け殻……?)
 先ほどの晶の言葉に対しても、全然心がこもっていなかった。自分でも判る。晶は晶なりに自分を気遣っていると判っていても。
(相談、か……。)
 答えは既に出ている筈だった。納得できなくても、呑み込まなきゃいけないという事も。相談しても仕方がないという事も。全て、頭の中では判っている。
 ならばどうして、それを真っ先に伝えるべき()には言わない?
 矛盾している。判っていても、成せない自分が。
(……………。)
 つかさは無言のまま、水に濡れた右手をしばらく見つめたかと思ったら、鏡に当てて、上から下へと撫でる。下ろした指の軌跡を、水が作った。


 夕暮れの街並をつかさが歩いてゆく姿はたゆたう旅人の様でもあり、何ら変わりどころなどのない群集の中の一人でもあった。
 しばらくすると見慣れたはずの景色の一角に、足場が立てられシートが覆われている。
(また何か工事やってんだ……。)
 何処にでもある、とりわけ摘み出すような事でもない光景。だがそれはつかさの心に妙に鈍く響いた。変わりゆくこの泉坂(まち)、変わらない、いや、変われない自分。
 最近つくづく頭を過ぎる。一体何を求めて帰ってきたのか。誰を求めて帰ってきたのか。それとも、求めるものが手に入らないからこそ、誰かを求めたのか……?
 そう思う度、首を横に振る。
(そんな関係、望んでない……。)

「……………アタンシィオン!(※危ない)ツカサッ!!!」
「………え?」

(……いや、キレイさっぱり忘れちゃえばいい事だ。)
 導き出される方向(こたえ)は、もう変わらない。ならば、そのままでいい。そのままで……。

(だから西野が留学してる間、俺も頑張ってみようかって思ってさ。)

(隠す事が裏切りなのか、それとも明かす事が裏切りなのかな……。)
 不意に歩みを止めるつかさに、暖かい筈の春の風は冷たくその髪を揺らす。思索の螺旋が、巡り巡る。矛盾を照らしながら。
 望んでいるのかいないかも半ば覚束ないまま、まるで吸い寄せられるかのようにつかさの脚はいつの間にか、かつて彼女が夢への足がかりとしていた場所に赴いていた。
(やっぱり、あたし自身が全く納得できていない……。)

(今のままじゃ夢は夢でしかないんだよな…だから、俺真剣に映画の道目指したいなって。)

(そうだよ。淳平君なら…そう言うよね?)
 陰から深呼吸をして、自分を励ますようにその扉へと赴く。営業中で、且つ日暮龍一が居るはずにも関わらずさして混み合ってもいない事に若干違和感を覚えるつかさだったが、この日に彼が帰っている事は間違いないと知っていた。だが、その確信が裏目に出る事につかさは気付かない。
 それは……、
「すいません。」
「……おや、つかさちゃん。どうしたんだい?」

(……つかさちゃん?)
そこに淳平が居るという事に、

「日暮さんは…、いらっしゃいますか?」
「………いるにはいるんだけど…、それが今ちょっと先客が、ねぇ……。」
「…え?誰が…」

「……西野ッ!!」
(……その声、は…!)
 気付かないという事であった。

「す、スイマセンッ!用事はいいです…ッ!失礼しました!」
「ちょっと!つかさちゃ……」
 思わず、その場を走り去るつかさに、龍一の祖母が声をかけるが及ばない。
 しかし、その声を奥で聞いていた淳平がいち早く動いた。
「ど、どうし…すんません!俺、後追います!!」
 つかさが出た正面ではなく、淳平は彼が入った裏口へと飛び出してゆく。
 その様子を見て、龍一も思わず席を立とうとするが、彼の祖母が諌めるように袖を掴んだため、龍一は叫んだ。
「頼んだぞ!ボウズッ!」
 その言葉が、淳平には心強く思えて。
「…………はいっ!」
 少し躊躇いがちに踏み出した足を確りさせ、2歩目は力強く地面を蹴っていた。
「…アンタは決めたんじゃろ?つかさちゃんの事は、自分が介入してはいけないと。」
「……!ああ、分かってるよ……。」
 龍一の表情は険しかった。
(俺には……今のアイツの力にはなれん。)

「ハァッ…!ハァッ…!ハァッ…!ハァッ…!」
 パティスリー鶴屋から出て、つかさは無我夢中で走っていた。人をかき分け、角を抜け。自分でも何故だか分からないほどに興奮していて、流れる涙が風に当たってのものなのか、自身の感情に基づくものなのかも分からない。
(どうしてあたしは逃げてるの……!?だって、いつかは…いつかは分かる事だったでしょう?でも嫌だ!こんな関係、望んでいない…!)
 50メートル程遅れて、淳平が追いかけていた。角を曲がるとようやく彼女の姿が小さく確認できた。
「ハァハァ…!チッ…、クッ、チキショウ!!」
 そう一息入れると再び全速力で走り出した。
(……………。)
 しばらくしてピタリと脚を止めるつかさに、淳平がようやく追いついた。絶え絶えの息を肩でしながら、時折唾を飲み込む。
「ハァッハァッハァ…ッ!」
「…………………………。」
 振り向きもせず、何も言わないつかさに、口を拭いながら淳平が切り出した。
「ハァッ!ヒィ…!ハァ…ハァ……ック、俺は…ナンも、聞いて、ねぇ…ぞ。ハァー、しんど……!」
「…………………誤魔化さなくていーよ。」
「あぁ…!?」
 それなりの距離を詰めて全速力で駆けてきた淳平は、両膝に手を乗せて見上げるような前傾姿勢で声を荒げた。
「………もう、分かっちゃってるんでしょ?」
「……知らねーな!」
「…あたしの右腕の事。」
「聞いちゃいねーよ!」
「だから誤魔化さなくてい…」
「誤魔化してんのどっちだよッ…!!!」
「………!」
 淳平の怒号を聞き、つかさは胸を掴まれたような感覚に陥り、ゆっくりと振り返った。
「やーっと振り返ったか。……ハァハァ…。」
 そして淳平の心を落ち着かせて言葉を選ばせるのに、その一瞬は若干なりとも効果はあったと言えなくもない。上がった動悸も口を拭う腕の動きと共に幾分穏やかになった。
「……俺に“誤魔化すな”っつーんなら、ちゃんと自分の口で言えよ。」
「………。」
 それでも尚、つかさは硬直して惚けるように淳平を見つめていた。歯を重ね合わせて、苛立ちを噛み潰すと、淳平はつかさの両腕を掴んで言った。
「……しっかりしろよッ!西野は…お前はそんな……」
 その瞬間、淳平はハッと言葉を止めた。自分は何を言おうとしている?“お前はそんな奴じゃないだろう”…?そんな事を言える資格が自分に有るのか?
 そして苛立ちは間違いなく彼女に起因しているはずであるのに、まるで自分の事のように、その棘を肌で感じているかのようだった。抱えるものから逃げ続けて、優しさや甘えと云う名の檻の中で方向(みち)を見失っていた自分が、彼女に何を言えるというのか。
 そしてもう一つ淳平の言葉を止めたものは、淳平だけを映し出しているかのようで、何も映し出さないかのような、朧ろ気な彼女の両の眼から一筋流れていた涙だった。


 数刻後、淳平に連れられて彼の住まう「入る気がしない」アパートへと付いて行くつかさの姿があった。
 ここまでの時間、泉坂から彼の住む地まで二人は一言も発しなかった。明るく振舞って誤魔化すのはいくらだって出来た。淳平が敢えてそれをしなかったのは結局そんな行動は何の足しにもならないばかりか、また流されてしまいそうだと思ったからだった。
 自身が明るく振舞えば、きっと彼女もまた「気を遣わせた」と笑って返すに違いない。そうしてここまで来てしまった。作られた人形の笑顔を見ようとも見させようとも思わない。繰り返すばかりの、同じ罪――
「入れよ。散らかってて汚ねーけど。」
 改めて思う、大きく開いた身長差。つかさは淳平の表情を窺えなかったが、物腰柔らかで何処か抜けてるような憎めない、いつもの淳平ではない事くらいはわかった。むしろその声は、彼らしくないぶっきら棒な響きである。
 中に入って少しだけつかさは安堵に似た感情を得られた。
(……本当に汚い。)
「あー…ったくこんな事なら唯に掃除でも頼んどきゃよかったかなー。」
 バサバサと服やらDVDやらノートやら、大量にとっ散らかったそれらを、もはや万年床と化したふとんごと畳んで無造作にスペースを作る淳平。
「……まぁ、とりあえず座れよ。」
 口調は変わらず淳平らしくなかった。言われるがままにつかさが座ると、淳平は台所でいつも飲んでいる自分のカップと、唯が使っているカップを手に取る。唯のカップだけ一応、と洗い、コーヒー粉と水を入れて電子レンジで温める。
 気休めにしかならないと分かりつつも、目を醒ましたいと思った淳平は自分の分だけいつもより濃い目に淹れた。これから睡眠時間が削られる事は覚悟しているが、彼女の為ならどうという事もない。仮にそうでなかったとしてもざらにある事だ。
「……………あ。」
 鬱屈しそうになるのを避けて作業に没頭し、うっかりミルクと砂糖を唯がいつも好む量で入れてしまった事に淳平はようやく気付いた。
「悪り。クセで1個ずつ入れちまった。」
「………なんでも飲めるから。いいよ。」
 少し冷ましながら飲むつかさの一方、淳平は立ったままグビリと一口頂くと、彼女の対面でドカッと座った。
 左足だけ寝かせ、右足には膝を付いて右手は口元に置き、おもむろにこう言った。
「……聞かせてくれる、な?」
 堅く険しい表情の淳平に、俯きながらつかさが声もなく頷いた後、静かに話始めた。


 一方その頃――
「お、来た来た。」
 右手を額に当てて遠くを眺めるようにヒロシが言うと、力也、ちなみがそれに続いた。
「ホントだ。綾ちゅわぁああん!」
「わーお久しぶりですぅ東城先輩ー!」
 呼びかけられた綾が応える。
「ごめんなさい。ちょっと仕事切り上げるの遅くなっちゃって。でもどうしたの?急に。」
「あー本当の事言うと、真中のヤローと小宮山と男だけで集まろうかって言ってたんだけど、予定変更!悪ィな。突然呼び出して。」
「ううん、あたしは平気。ここのところ家の中に缶詰だったし、誘ってくれてありがとう。」
「ねぇそろそろ入りましょうよー。」
「先入ってくぜ外村ー。」
「ああ、行く行く。」
「……考えてみればこのメンバーでお鍋なんて初めてだね。」
「うるせーのが約3名居ないから丁度いいんじゃね?そうそう、今日はカキ鍋だぜ。」
「へぇー…あ、そろそろ旬も終わっちゃう頃だね。カキって聞いたら唯ちゃん羨ましがるだろうなぁ。」
 その言葉を聞いてそれはそれは嬉しそうにヒロシは言いふらした。
「ああ、そうそう唯ちゃんと言えばさ、真中と同棲してるらしいぜ?」
「………は?」



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