Top > Writing > 「夢の続き 明日の風」




■SCENE-17:『Sheltering Sea』


「高校卒業した後、あたしは日暮さんの紹介で、フランスのある菓子店の見習いになった。そこまでは…分かってるよね?」
 窺うつかさに淳平はただ首を縦に振った。
「だけど、いくら事前に勉強していたと言っても、ほとんど現地の言葉喋れなくて、最初の数ヶ月はほとんど意思疎通だけで精一杯だったよ。でも、なんとか馴染み始めて、あたしなりに一流の技術も身に付ける日々が1年、2年と過ぎていった……。あ、そうは言っても最初の1,2年はケーキやお菓子の事ばっか教えてもらってた訳じゃないんだけどね。基礎修行で色んな料理を叩き込まれて。大体3年目からだったかな。本格的に菓子専門で教えて貰えるようになったのは……。」
「……向こうでの暮らしはどうだったんだ?その、友達とかさ。楽しく過ごせたの…か?」
 矢継ぎ早に自らの技術を習得する様ばかり語るつかさを配慮してなのか、それともただの素朴な疑問なのか、淳平が質問した。
「……日本が恋しいと思う事もあったケド、やっぱり楽しかった。向こうでも友達いっぱい出来たし、ほとんどは地元のフランス人のコばかりだったけど。休みには色々案内してもらったりしたし。」
 一息入れて物憂げな視線で手元のコーヒーを見つめながらつかさは続けた。
「……でも、一番はやっぱりお菓子作る事だった。自分が一番好きなことやらせてもらってたんだし、こんな幸せな事なんかないよ。」
 噛み締めるように語るつかさを、淳平は何を語る訳でもなくじっと見つめ続けていた。
「そうしてお菓子を専門的に習えるようになって、その日も変わらずケーキを作るだけの日のはずだった。先生の指導を受けた後の時間を使って皆で自主的に修行してた時…それ(●●)は起こった。」

「(…よし、これで完成っ!)」
「(おお〜立派ね、ツカサ。ん〜味の方は…?……ちょっと甘すぎるかしら。)」
「(クリームの味は悪くないけど若干多い気がするわ。)」
「(そっかな?じゃあちょっと削るか、ブルーベリーを増やして酸味を上げたらいいかな?)」
「(そんなところかしらね。それじゃ器具を片付けてからゆっくり食べようか。)」
「(了解!)」
「(それにしても優秀だよね、ツカサは。)」
「(フランス語もめきめき上達していってるしね。アタシ達もウカウカしてなれないね。)」
「(うん。……あれ?上なんだか…)」

「……………アタンシィオン!(※危ない)ツカサッ!!!」
「………え?」

ドサドサッ!ドシャン…!!カン、カララン……

「あ、くぅッ…!」
「ツカサッ!ツカサッ!」


「上に置いていた器具があたしの背後から落ちてきて、あたしはそれの下敷きになって……。」
「………。」
「あたしはすぐに救急車で近くの病院に連れられていった。激痛が走っていたけど、お医者さんからの診断は『打撲』だった。軽症という訳じゃないけど、1週間程安静にしていればいずれ治るって言われてね。」
「…?それじゃ……?」
 今さらながらに疑問を呈する淳平はやはりまだ信じたくないという拒否反応の現われだろうか。しかしその声に首を横に振って、右手を掲げるように上げて見つめながら続けた。
「問題はそこからだった。お医者さんの言う通りしばらく安静にしていれば激痛も収まっていって、腕自体も普通に動かせるようになった。言われたとおり1週間経って、あたしは現場に戻り、修行に復帰した……だけど…。」

「(ツカサ、これとこれ、クリーム作っておいて。)」
「(はい。)」

(…………あ…れ………?)
「(あれ?ツカサ、まだ出来てないの?)」
「(すみません!)」


「(ほい完成ッ!よし、お前ら運べー!)」
「(はいっ!)」
「(はい!)」
(よっ………あ、あれ?…え?……あ、ヤ、ヤバイ………!!だ、だめ…!)

ドッシャン!

「(大丈夫?ツカサ。)」
「(何やってんだ!)」
「(すみません!すみません!)」


「(ちょっとどうしたの?ツカサ。)」
「(う、うん……。)」
「(病み上がりだからしょうがないよ。)」
「(少し大人しめの作業にしましょうか。)」
「(すみません…。)」
「(それよりもう一度病院で検査してもらった方がいいんじゃないか?)」
「(そうだ、それだな。)」


「……次の日、郊外の大きな病院で精密検査を受けた結果が…。」
「実は右腕に致命的な故障(ケガ)を負ってた、…ってか。」
 淳平のその表現に、つかさが少し説明を加えた。
「致命的…半分は正解だけど、半分はハズレ。故障(ケガ)と言っても、日常生活には大して問題はなかったもの。普段で過ごしていて激痛が走るという事もないし、支障もなかった。でも…。」
「…………」
 淳平には数刻前の龍一との会話が思い出された。


「日常生活に支障はない…?それじゃあどうして?何も問題ないんじゃないですか…?」
「……ボウズ、お前はアイツの腕に触れた事はあるか?」
「腕……ブッ!」
「どうした?」
「ゲホッゲホッ…いえ、なんでも。あ、あるにはありますけど……。」
「…それで、気付かなかったか?」
「………!?」
「アイツは華奢な体つきをしているが、ああ見えてしなやかな筋肉をしている。ウチでバイトを始めてから引き締まっていったんだ。ケーキ作りと言うと世間一般では華やかなイメージも付き纏うかもしれんが、実際には大変な重労働だ。1日3桁のケーキは作り、ウチではかきいれ時には下手をすりゃ1,000個ものケーキを作る事もある。アイツの場合は学業の後のみだった訳だが、早朝に起きて作り出し、売り出し、減れば当然また作る。閉店の後も次の日の仕込みをして準備する。更にはケーキ作りの作業だけでなく店舗の掃除や会計処理など。ケーキ屋の1日なんてそんなもんだ。」
「…それは、大変ですよね…。」
「トレイいっぱいのケーキを持ち運んでいる高校時代のアイツを見たこともあるだろ?あれだけでも1日何十回と繰り返すんだ。さっき言ったが、バイトの段階でもそれ以外にも作業は山ほどある。スピードを求められる作業もあれば、神経を使う細やかな装飾もある。」
(……龍一さんがガタイがいい訳だな。最初はケーキ作りなんかと全く似合わないように思えたけど、当然の事だったんだ。)
「…それを“日常生活”の範囲とは、普通は呼ばんだろう。無理をしてあのまま菓子職人(パティシエ)の道を進んでも、数年で続けられなくなる。悪化すれば、それこそ日常生活すらままならなくなる可能性も出てくる。」
「…そう…すか。」
「だから…俺が、辞めさせた。」
「……え?」


「可笑しいでしょ?違和感が無いと言えば嘘になるけど、あたし自身は別にやれると全然思っていたし。」
 右腕に左腕を添えて自嘲しながら語るつかさに、その感情を拭い去ろうとするかのように、淳平が話を進めた。
「…だから、も一回安静にしてろと言われた3ヶ月の間に、利き腕じゃない左腕を使っていたってのか。」
「利き腕がなければ上手くいかない。だったら、左手を利き腕にすれば良い話。そう考えた……でも。」
(いや、思えば本当はそこで解っていたのかもしれない……。)


「なんでですか…?なんで…アイツの菓子職人の道作ってやった日暮さんが……。」
「………つかさは…アイツは本当に優秀だった。優秀…と言うより器用と言った方がしっくり来るかな?教えればすぐに吸収して自分のモノにしていたし、教えるこっちもやり甲斐がある。ばーさんも推していたが、実際アルバイトには惜しい程だったよ。何より高校生らしからずしっかりもしていた。そんなアイツの申し出だったから、俺も何とかして働きかけた。“ああ、コイツならなんとか上手くやっていけるだろう…”って。」
「実際、上手くいっていた訳じゃないですか…。」
「……だが、それもケガをするまでの話だ。そもそも利き腕を変えれば済む話じゃないだろう。両腕に負担が掛かる作業をしなければならない場合、イチイチ他人に頼らなきゃいけないのか?それで菓子職人は務まらん。」
「でも、それはアイツの……、アイツの、せい……じゃ………。」
「………………君は、どう足掻いたって、呑み込まなきゃいけない現実に直面した事はないのか?"本人が悪い訳じゃないから"。そう言っていれば済む事の方が少ないとさえ思うぞ。」


「正直、ちょっとガッカリしたな。」
「………え?」

「もう一度振り返ってくれ、東城!…いや、振り返るな。振り返るな――…。」



「……………。」
「それに、アイツはまだ若い。菓子職人じゃなくてもいくらでも方向(みち)はある。それなのに、行き止まりの方向(みち)を歩ませる訳にはいかん。」
「……それで、アイツは…?」


「…日暮さんにしがみついて泣いた。もうこれでもかっていう位にね。」
 原因となった道具の管理も、実際の所ほとんど誰がやっていた訳でもなく、ずっと置かれていたものだ。しかもその部屋の管理責任を任されていたのは他ならぬつかさだった。
「次の日、冷静になって考えると、本当に誰のせいでもなくて良かったって思えたけどね。誰かを恨まなくて済んだから。その後はすぐに荷物をまとめて日本に帰ったわ。実際には去年、淳平くんに会うよりも2ヶ月も前にね。」
「それで、今は泉坂(じもと)で普通の会社で勤めているって事か。」
 頷くつかさは先ほどより虚ろな瞳を覗かせていた。フゥと息を吐くと、淳平が喋りだした。
「でも、それじゃ料理が作()ないって訳じゃないんじゃないのか?」
「え?う、うん…。負担をかけ続ける訳じゃないなら。」
「…んじゃ別にいいよな?」
「……?」
 そう言うと、淳平はゴソゴソと台所の冷蔵庫を漁って中のものを取り出した。不思議そうに見つめるつかさだが、淳平は顔を突っ込んだままに愚痴をこぼしていた。
「…ったぁ〜、ロクなモンねぇなぁ…。って俺の冷蔵庫だけど。」


“もし他人の子預かって人生崩壊させてみろ。責任重大だぞ?”


「すまん、ちょっと席を外す。」
「あ、はい。」
「……坊ちゃん、ちょっと。」
「え?」
「孫は、ああ言っとるがの。つかさちゃんを辞めさせる事に最後まで反対していたのは本当は龍一なんじゃ。」
「……?」
「孫が推薦して、つかさちゃんが通っていた店は向こうじゃちっとは名の知れた所でな。菓子職人志望者が何人も修行を希望しとる。他の志望者を優先させるのも当然じゃ。修行の身とはいえ、ちゃんと働いている店員である事に変わりはないからの。そういう訳で冷たいようじゃがつかさちゃんを雇い続ける道理はないし、精密検査の結果が出た時から、店の方ではその方針が固まっておったそうじゃ。まぁ、こればっかりは…仕方のない事じゃからのう。」
「でも最初は日暮さんが反対してた…何故ですか?」
「一言で言えば、『責任』かの……。つかさちゃんも学校やご両親を説得するのに相当揉んだようじゃ。まぁそれは孫の関わるところではなかったんじゃが、龍一の影響であのコは菓子職人の道を選び、龍一の力添えでフランスへ留学できた。 それは、紛れもない事実じゃからのう。あのコの夢を“何としてでも叶えさせてやりたい”と、そう思ったんじゃろなぁ……。」
「それが…なんで今みたいな、“日暮さんの方から諦めさせた”って?」
「……………それもまた、『責任』かのぅ。店の方からも『まずは腕の治療を優先させるべきだ』と言われてな。さっき言ったような留学先の都合があったとしても、それはその通りじゃ。あのコの為に何をすべきか……?それを第一に考えた時、例えあのコの意思に反していようと、つかさちゃんを説得させるのが自分のやるべき事だと感じたんじゃろ。」
「………。」
「自分があのコの人生を動かした。その責任を自分で取りたいと思うたんじゃろう。あれから、孫はつかさちゃんの様な菓子職人志望のコを留学させる事もないし、あのコは知っているかは判らんが、ご両親に説明するのは相当堪えたようでな。つかさちゃんの方も、そんな孫の様子を察して離れていき、孫もあのコに関わる事はやめた。“自分に出来る事はもう何もない。むしろ自分の存在が足枷となるかもしれん”とな。」
「…そっ…スか。」
「まぁ孫と同罪のワシが言える立場ではないがの……、だから、お前さんが孫の分まで、あのコを支えてやってくれんか?」
「……でも、日暮さんに出来なくて、俺が出来る事なんて……。」
「アンタにしかでけん事があるじゃろ。あのコはアンタを選んだんじゃから。」


(“支える”か……。)
 漁り続ける冷蔵庫から一瞬つかさの方向に目をやると、すぐに淳平は視線を戻した。
(どんな支え方が、西野の望んでいる事なんだろな……。)
 どうにも沈んでしまう。そんな時だからこそ、膿を全て出し切るように、髪の先まで真剣に考えるのが筋だろうが、その一方で動く事も大事だった。
(いや違う。アイツの心を満たせる行動なんて、きっと俺にもないよ、日暮さん。)
 つかさの現状を自分に当てはめて考えたら、きっと同じだ。
 今の自分から、映画を省いたら何が残る?世間一般から見りゃ極めて特殊な職。他に出来る事なんてのもない。いや、そんな事よりも何よりも、映画を作る事は幼い頃からの自分の夢だ。それ無くしての自分なんて在り得ない。映画業界の中にいるからこそ、今の自分が在って、この先の自分が在るのだ。
 でも、つかさはそれを否定せざるを得なかった。もしも自分がその立場だったらどうしただろう……?考えるだけで、身震いする。その身に味わってはいない者に、何が出来ると言うのだろう。先輩であり、今は上司でもある角倉周から淳平が食らった挫折は、所詮「甘ちゃん」な自分の、淡い夢を奪われただけの痛み。15分の短編映画分にすらならない。だけど、つかさは高校の頃から確りと自分の将来を見据えていた。その夢を見失う事の意味…真剣に懸けていた時間の違い…。自分の味わった辛さなんかより全然上だろう。
 と、そこへ突如電子音が流れてきて、淳平を現実に引き戻した。
「ピピー!ピピー!ピピー!ピピー!」
 冷蔵庫からの「閉めろ!」という合図だった。
(いけね。)
 パタン!と音を立てて閉めると、淳平は中からなにやら取り出してきたものをつかさに見せた。
「とりあえず、鶏肉とサラダ。こんなモンしかねーケド、何か晩飯作ってくれないか?…俺、昨日から完徹だから疲れてんだよ。」
 本当は、完徹なんか日常茶飯事だし、その状態で自宅で料理する事なんてのもザラだった。わざとつかさに料理を促したのだ。
「嫌?」
 淳平にとって、ある種の賭けだった。道を閉ざされた事から、もしも料理自体すらもトラウマだったなら…。
「……………。」
 黙って鶏肉の入ったパックをまじまじと見つめるが、少ししてつかさが言った。
「淳平くん、他に何かないの?」
「小麦粉とか調味料ならあるけど、他にねぇ。いやこれがマッタク。」
「他になしで、鶏肉ブツ切りにしてあるんじゃ…、から揚げくらいしか出来ないよ?」
「別にいいよ。食えりゃ。あと一応米は横。」
「炊飯器は…これ、か。……えっ!?」
 炊飯器を開けるつかさは愕然としながらも、中に入っていた元・白飯を取り出した。
「パリパリ…。ちょ、ちょっとカビり始めてるじゃないコレ?!」
 つかさの性格と経験からすれば全くもってありえない事だった。当然、その疑問はぶつけるべき相手にぶつける。炊飯器からコードを抜いて本体を持ち出して淳平の下へ戻りながら言った。
「ちょっと淳平くん、こんな状態で放っておいて料理し……」
 つかさが料理に入り込み始めた為に安心して、特に自身が何もする必要がないからだろうか。よく見ると、淳平は寝息を立てていた。
「………………。」
 浮かぶ顔には疲労が容易が垣間見える。本当はずっと睡魔に襲われていて、それと戦っていたのだろうか。壁にもたれながら右手の親指と人差し指は左肩辺りを抓っていた。
 黙ったままつかさは狭い台所へ戻っていった。
(とりあえずこれ洗わないといけないかな……。)


「…と…、…っと…、…ちょっと……、…ちょっと…!」
 呼びかける声が、耳を鈍く響かせた。
(……ん…?)
 見上げると、少し不貞腐れたような表情のつかさがそこに居た。
「げ。…俺寝、寝てねぇ…、」
「ヨダレの跡。」
(…ハッ!)
 淳平は反射的にゴシゴシと口元を拭った。それが「寝ていた」という証明であるとも考えられずに。それはまた、自分が寝ていた時間がものの数分程度としか考えられておらず、時間間隔が狂っていたという事でもあった。
「出来たよ。」
「え?」
「ホラ。」
 目の前にはご飯とから揚げ、サラダがあった。サラダは水で洗ってドレッシングを添えるのみ、ご飯は洗って炊くのみ。手間の程度を考えてみれば、“調理した”と呼べるものはから揚げくらいなものだった。
「そっか。俺割りと寝てたんだな。」
「45分くらい。」
「って自分の分は?」
「食欲…ちょっとないし。」
 それは間違いではなかったが、本当は火の車の淳平の貴重な食糧を食してしまう事に遠慮をしていた。しかしそれは、気遣いという言葉を借りて、何処か自身が彼と距離を置こうとしている事の証明のようにも思い知らされていた。
「なんだよ、一人だけって食べづらいじゃん。ま、いっか。俺はハラ減ってたし遠慮なく、頂きまーす…っと。」
 何故だろうか。淳平が食事に手をつけようとした時、何処か懐かしい気持ちにされた。しばらくあって、高校時代、彼が何度か自分の作った料理を食べている姿と重ねているのだろうかと回想したつかさだったが、それはすぐに違うと感じた。そもそも記憶から感情が出てきた訳ではなく、感情が先に出て記憶を繋げているのだから、ただの後付だ。
 最初につまんだからあげを咀嚼をして飲み込んだ淳平が言った。
「……なんだよ、美味いじゃないか。」
 あっけらかんとした口調が、つかさには少し不思議に思えた。自身先述したように過度の継続的連続的な負担は厳禁だが、手前味噌ながら不味い物を作ったつもりはないし、別に料理の腕が鈍る程のブランクもないからだ。
「それにちゃんと作れてるし。」
「でも本当は半日くらいタレ漬けして仕込んでおいた方が味が染みていいんだよ?鳥肉揉んだりしてなんとか賄ったけど。」

「……じゃあ、"作らない"じゃなくて、"作れない"、だとしたら?」

「……よかった。」
「え…?」
 その言葉と同時に、ようやく淳平が微笑みかけてきた。
「あ……、」
「本当に良かった。……最悪、料理すらも出来ないんじゃないかって思ってたからさ。」
「あ、ああ……!」
   そう詰まらせた声を漏らしながら、つかさは両手で顔を覆い、そして次には床に付けて頭を伏せた。
「ごめん…!ごめんなさい、淳平くん……!!」
 ようやく気付いた。知られたくない腕の秘密から遠ざけようとした料理を避ける態度。整理のつかない心がそうさせた。でもそれが、相手に不必要な部分の心配すらもさせていたという事に。そして、自分は失うばかりであったというだけではなく、ちゃんと得たものがあるじゃないか、という事に気付いて。
 流石に淳平も気取って食事をする訳にもいかず、つかさの傍に寄った。
「いいから…うん。ご飯食べらんねーし。」
 目を腫らして泣くつかさの背筋を伸ばさせて、自分は食事を続けた。
「ただ、急ごしらえとはいえウチの母さんの味には敵わねーかな、このからあげ。ウチの母さんさ、からあげはやけに上手ぇんだよ。」
 パクパクと食べてすっきり空の食器が並ぶと、淳平は最近は唯が相手に居た時にしかやらない、「ごちそう様」のポーズで一礼すると、最後に一言感想を述べた。
「……でも、今はこれが一番美味いかな。」
「……ごめんっ…!ごめんなさい…ッ!」
 その言葉と同時につかさは思わず座る淳平に抱きついて身を預けた。
「今の西野は、ちょっと正しい地図だけを手に入れたがってるだけ。例え、一杯の人に食って貰えなくてもさ、少なくとも今は俺がお客さんになっから…。」
 少し自分の言葉が、飾りを帯び始めるように感じて、淳平はそれ以上は止めた。
(きっと、こんな言葉は本当に西野の心に響いてはいない。救えてはいない……だろうな。)
 同時に、彼に身を預けて泣きながらも、つかさは後悔にも似た落ち込みをしていた。
「結局、こうするしかなかったの……?」
 口に出すつもりのなかった言葉も、つい出てしまった。
「……俺だって、1回西野にこうしてる。

「西野に甘えたかったのかな――って迷惑だなこんなの…。」
「…ううん、もっと甘えてよ。淳平くん。」


 だからよ…こうする権利、あるだろ…別に。誰も責めねぇよ。」
 その言葉が、余計つかさに安らぎと後悔を強めた。
(だから…嫌だった……。君に認めてもらえないのが怖かったんじゃない。自分が認めていない自分を君が認めてしまうのが怖かった。君は…残酷すぎるほど優しいから…きっとこうすると思ってた。)
 それに対して、自分が「それでも道は変わらない」と、乾いた感情しか抱けないであろう事も嫌だった。選びたい未来(みち)を、選ぶにはどうしたらいいか。つかさは目的に対して手段を選ぶ方法と実践を自身強く意識してないにしろ真っ直ぐに向かえていた。それは龍一の言う「器用」という言葉とも合っているだろう。
 だが、目的を、自身を、見失い足掻くつかさには、その器用さは自身の冷たさに繋がっているようだった。“彼に身を委ねたって何も変わらない”、“そんなのは気休めに過ぎない”と。誰かを逃げ場にしても、いつかは自分が羽ばたくしかない。

「これからはお互い、それぞれの未来に向けて頑張ろう……」

 同時に襲うのは、彼との約束を反故してしまっている事への罪悪感。自分が認められる自分になれていない事への苛立ちと悔しさ。何処か大人を気取っているだけの恋愛ごっこのようにも思える、未熟な付き合いしか出来なかった過去は、“本当に君に必要な事は何か?”という問いかけを怠っていた関係。


(俺達の関係…白紙に戻せないかな?)

(けど、西野に甘えっぱなしじゃ、やっぱ夢は叶わないと思うし。)



“優しさ”や“甘え”が誰かを癒しても、本当に誰かの為になるとは限らない。むしろ、その苺の様な甘い香りとは裏腹に、残酷なほどに否定する、虚飾だと感じた。
 “優しさ”や“甘え”が僕等を堕とすなら、強い力を。無謀じゃなくて、妥協じゃなくて――
 ようやく本当の意味で想い分かち合えた答え。互いにそう約束して、旅立ったはずだったなのに。結局また繰り返している。そんな怠惰な関係…望んでいなかったのに。いつからか、変えられるのだろうか……?
 つかさの背に軽く手を乗せている淳平もまた、視線を上に向けて想いに耽っていた。
(西野は…つかさは……、“光”だ。)


「…お弁当食べてくれる?もう夕方だけど…」
「俺、今日一日こうやって過ごせてよかったよ。」
(今は西野が俺を海に連れてきた理由がわかる気がする――)

「あたしも。初めて料理学校行ったとき、あまりに下手なんでクラス全員に笑われたよ。」
(いつでも、西野は笑って手を出して、俺を一歩前に踏み出させてくれる――)
「…よろしくお願いします。」
「まかせときなさい!!」


「…ううん、もっと甘えてよ。淳平くん。」



(自分がたまらなく小さく、独りに思うようなもがき苦しみ、消えてしまいそうに感じたあの夜だって。自分の全てを否定されるような深海の闇の中に居た俺を、君は認めてくれた。)
 いつだって、どんな時だって、救ってくれた。自分で光れる彼女が、自分に降りそそぐ光が眩しくて、君に惹かれた。それはまるで太陽の光のようだった。人は光無しで生きられやしない。
 だから、彼女は“光”だ。その光が今は少し輝きに陰りを抱いている。だったら、今度は自分がそこを照らす番だ。彼女がそれを求めていないと判ってても。
(大丈夫だ。きっと君は輝ける。だから、今は少しでも、俺を君が自分の存在を確かめる為に、欠けたコマに埋めてくれ。)
 たとえそれが偽りのIDで、間違ってると感じたとしても。
(でも…、彼女の光は、俺にはあまりに眩しすぎて……、)
 見上げた視線を今度は右後ろに逸らした。
(この光に包まれてしまえば、かつて抱いていた、深く沈めた感情も、全部飲まれて、いつか忘れてしまうのだろうか……?でも、“それじゃいけない”って、誰かが囁いてる気がする……。)
 “求める事も忘れる事も赦されない。”
「ありがと。もういいわ。帰る。」
 泣き腫らした顔が幾分収まり、つかさは離れて、さらにこう言った。
「……強くなったよね。淳平くんは。」
 その言葉に、少しだけ強張った表情になり、さらに淳平は立ち上がって彼女とは別の方向を見上げた。
「強かねえよ、俺は…。俺なんかより…、もっと強い奴がいる。」
「………?」
 つかさにはその意味が量りかねた。ただ…見上げる先にある、振り返った淳平の切な気な微笑みは、いつからか離れてしまった誰かの面影に似ていたような気がした。


“わすれないでね。”――


 二人が出会って8年目の春の事だった。



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