Top > Writing > 「夢の続き 明日の風」




■SCENE-23:『CROSSBRIDGE』


「それ……。」
 凍り付いた表情のままの淳平が、つかさの手にあるものを指して辛うじて口に出す。
「ねぇ淳平くん……、あたしは今…王女?それとも、機織の少女?」
「……?何を言ってるんだよ?」
「…これ、東城さんが書いたものでしょ?それも…淳平くんにだけ見せてた。……違う?」
(鋭すぎだろう……。)
 淳平は妙な感心を抱くものの、ただコクリと頷いてこう言った。
「王女なのか、機織の少女なのかって言ったよな……?つまり…アイツが知らず知らずの内に(かどーか知んねぇけど)、アイツ自身、俺、西野もリンクさせているという事に気づいたんだな。」
 今度はつかさがただコクリと頷いた。
 最初は明らかにつかさが王女で、綾が機織の少女と被って描かれていた物語は、いつの間にかそれが逆になっているかの様な印象をつかさも受けていた。
 それは王女の戴冠式の言葉に彼女の面影を感じた淳平も当然思ったことだが、あくまで自らの恋をこの物語の中で完結させたというメッセージでしかないと思っていた。
「それじゃ…。」
「小説の中の王女はこうして立派になってて、機織の少女は主人公と結ばれて…どっちなんだろうね?って思ったの。」
「これは……アイツの物語(フィクション)に過ぎない。いくらアイツが自分と俺と西野を、いつの間にか重ね合わせていたとしても。」
 元々上手い訳でもないのに、自分でもひどく下手な嘘だと淳平は思った。
「……ごめん。俺は…あくまで機織の少女はアイツだと思っている。自分の恋をこの作品の中で完結させた、そういうメッセージだと受け取っている。」
「……どうしてこれをずっと持っているのかって、言わないんだね。」
「じゃあ、どうしてそれより先に中身の解釈の話したんだよ。」
「……………。」
「……………。」
「「ごめん。」」
 二人は同時に頭を垂れた。
「……あたし達、もっとちゃんと言葉にしないといけないね。君のこと、あたしのこと、……それから…。」
 つかさのその言葉を聞き終わるか終わらないかの内に淳平は立ち上がり、ハンカチを手に取り、差し出した。
「とりあえず、顔拭け。」
 互いの事ですら知るのはついこの間だったのに、その上にもう一人の存在を交えて考えること、整理すること。
 涙と共に零れ出した感情をそのままに、出来るはずもなかった。
 先程帰ってきた瞬間のつかさの表情とその手にあるものに驚き、さすがに酔いは醒めたが、元々ヘベレケ状態の淳平。表情こそ固く何かを集中する様に一点を見つめるものの、壁を背に体を全く預けているのが、その疲れの度合を物語る。
 故に、この間は淳平が入れたコーヒーを、今度はつかさが用意してきた。
「はい。」
「さんきゅ。」
 二、三口飲んで運んできたトレイに置くと、淳平が話し始めた。
「…まず、最初の質問だけど、答えはYES。これはアイツが…東城が中学の頃から高校3年の終わりまで、個人的に認めてきたもの。…ずっと俺だけに見せてた。」
 ただ虚ろに聴き続けるつかさを見て、続ける。
「そして、最後に…あの雪の日に、完成した後のそれを俺に渡した。以来、俺がずっと持ってる。」
 ただ事実を淡々と述べた後、淳平はグッと唾を飲み込んだ後、その目を薄開きにした苦い表情になった。
「4年前……俺は…、西野を…つかさを選んだ事に間違いはないって今は胸張って言える。でも…一方でずっとアイツの存在から逃げてきた。臆病なだけの俺…このノートは、それを気付かせてくれたんだと思う。3年間…ずっと同じ夢を見てきて、アイツはこんな物こしらえる程に深い感情を俺に向けてきていたのに、俺の感覚は麻痺でもしてたんだろうかな。恋も夢も、全部中途半端な感情しか抱いちゃいないんだ、って、このノートを見る度、思い出される。」
 お前は何処を目指して夢を見て、恋をしていたのか。
 一人でも夢をつかもうと努力する凛とした姿の一方で、か細く息の詰まる様な声で想いを告げる様な繊細さ。一見して反対に見えるそこに共通する綾の、その熱――
 一方で、遮る様に、何も見ない振りをして、何も聞かずに自分の全てを肯定してくれる存在にただ守られる――
「…結局俺が本当に好きだったのは、東城(アイツ)でも西野(オマエ)でもなく、俺自身でしかなかった。そう気づいた時、そのままでお前と付き合うなんて出来なかった。」
「うん……。」
「まして東城の気持ちなんか、俺に応える資格なんかある訳がないよな。アイツからすれば、ずっと俺と夢を見たいが為に、脚本を書いて小説を書いて…3年間も。それ全部灰にしちまったんだからな。なのに、俺は誰が好きなのか考えてるフリして、その実自分が可愛かっただけ。それでもアイツは……。」

「夢を見たいから!あの頃のように!あなたと!真中くんと一緒に夢を見たいから……!!」

「それでもアイツは、また俺と夢を見たいと言ってくれた。俺の顔を見るだけで、絶対嫌な気持ちにさせてる。そんな事もおくびにも出さずにな。」
「……それはいつの話?」
「え…ああ、去年の秋、映研での同窓会の時。それから今年の冬…西野には内緒で。…ごめん!」
「別にいいよ。あたしもあたしで隠し事してたんだし。50/50。」
「……それに。」
 一息入れて淳平が強い調子で口にした。
「何よりも俺自身、アイツと映画を撮る事を望んでいるのが解る……!」
 綾の気持ちに応えなかった時から、その望みはずっと絶つものだと思っていた。
 散々利用して、傷つけて、今更そんな都合の良い話など、あるはずがない。
 でも、それじゃどうして中途半端なままのつかさとの付き合いを捨て、ずっとこのノートを懐に入れて旅をしてきた?
 どうしてそのノートにびっしりとメモを書いてきた?
 望めないはずの夢を見ている矛盾した自分の姿もまた、己が真実を追求する、夢を見ている己自身の"純粋な感情"。
 だが――
「……でも、振り回してきて、傷つけてきたのは西野…君だって同じだ。"最後に選んだ"からそれも万事OK?そんな都合良くいく訳ないよな。だから、俺が東城と映画を撮るのが嫌なら…不安なら……、止めればいい。」
 強い決意を滲ませる淳平の表情が、視線を逸らすつかさの口を動かす。
「あたしに、君の行動を決めろというの?」
「……。」
「……非道いね、淳平君は。」
「…え?」
「重要な決断を他人に委ねれば楽?東城さんと夢を見られなくなっても、あたしのせいなら、楽?」
「それは…!」
 言い返せなかった。
 夢…自身の追求にとって欠かせないものだと自覚しているのに、決断だけ他人に委ねて楽になろうとしている。
 いざとなれば手前の事すら決められない。綾の前であれだけ力強く言っておいて、どこまで優柔不断なんだと。
 4年前はこのノートが、そして今はつかさが、自身の弱さを際立たせる。
「……そうだな。」
 自分に対する静かな憤りを隠さない淳平に、つかさの方が話を始めた。
「あたしね、ずっと彼女の事が怖かった。だって、あたしはいつでも君の傍に居れた訳じゃない。脚本も書けない。君と見る夢なんかない。…いいえ、本当は今でも怖い。おかしいよね?あの頃の幼い気持ちなんか、もう過去のもののはずなのに。」
 一息つけて淳平が言った。
「……ああ、過去のものだよ。」
 振り返る事は、できない。
 もう、綾が淳平に恋愛感情を抱くことは、ない。このノートこそが、それを確信めかせている。
 同時にまた、自分も。
「でも、それだけで終われるの……?」
「……こんなものを持ってて、"終われる"なんて科白は、言えないよな。」
 自嘲気味に淳平が語る。
「好きな奴と居れて、好きな事出来る。それ、『幸せ』すぎ。…でも、どんな『幸せ』でも、自分の手で掴み取らないものに価値なんか一片も見い出せないんだ。」
 そればかりか、むしろ自分の弱さを増幅させるだけで、最後に待っているのは……。
 考えるフリをして、ずっと逃げてきただけの代償も払わずに、自身の手で一体何を掴めた?
 目の前に居るつかさですら、ただ何の打算もなく自分を受け入れてくれる都合の良い存在として利用していただけで、自らは打算を重ねるばかり。
「だから……。」
 淳平がつかさの持つノートを拾う。
「……俺はこの4年間、このノートに恥じない生き方を心がけようって決めた。先の映像のコンクール受賞も、ちっとはその成果が出たのかな?って初めて確信が持てるもんだった。…だけど、それだけじゃ全然足りない。アイツには遠く及ばない。俺はもっともっと成長してなきゃいけない。それが東城と夢を見るための条件だって思っている。高校の時みたいに、力の差をアイツの好意で埋めさせるよーなマネなんて絶対できるもんか。」
 他人を傷つけて見る夢で何を誇ればいい?
 かけ違えて最後まで交わる事の無かった想い、それでも後に残った夢が、新しく二人を繋ぐ。
 その意味を、その存在を、確かめる事。
 このノートが、それこそが淳平の中でやり残されてきた事だと、告げてくる。
 一人強くなる綾の姿を見るのなんて、もうごめんだ。
「…それをアイツには言ってないし、言う気もないけどな。きっとこれは俺のプライドの問題なんだと思う。他人から見りゃバカげてるかもしれない。だって、確かめたって何が変わる訳じゃない。」
 淳平はつかさが好きな事に変わりはない。綾が淳平に恋愛感情を向ける事もない。
 そう、確かめた処で何が変わる訳じゃない。
 でも、何かを期待しなければ何もしないのは、それこそ与えられる対価を求めるだけの、ただの打算に過ぎない。
 結果の問題ではなく、自分自身のプライドの問題。
「いくら都合が良いとか勝手とか言われても構わない。だけど、俺はもう止められない。西野の為でも東城の為でもない。俺自身の為に、アイツともう一度夢を見るって決めてる……!」
 その強い想いを秘めた淳平の瞳は、つかさには最後に別れた雪の中、か細く消え入りそうな表情の中にも力強く佇んで見えた綾の瞳と同じに見えた。
 不安と、力強い淳平の姿に喜びも感じる、矛盾した感情がまた心を満たす。想いが描く矛盾と同じ様に、つかさの顔は涙に溢れながら、笑みを浮かべていた。
「ふふっ…誰が都合がいいとか勝手だって言ったの?いくらでもやればいーじゃん。」
「俺が…不安じゃないのか?」
「今のあたしに、君を止める権利なんかないよ。」
「………。」
「これを見つけて、不安にならなかったと言えば、嘘になる。でも、そんな事を忘れるくらいに、物語にどんどん引き込まれていって…。」
 特別読書家でもないからか、やはり何処かで敬遠してきたのだろうか。自身が高校2年の時に請われてヒロイン役を引き受けた彼女の脚本以外の作品を、つかさはあまり読もうとはしなかった。
 繊細な感情描写、少し荒削りながら読む者の心を揺さぶるその単純な実力だけでなく、それがそのまま淳平を想う感情の大きさになっている事に打ちのめされた。
「あたし、この頃の彼女に負けてるね。不安ばかりに駆られて、一体何やってんだろう?って……。」
 そして、どれほどの想いでこれを彼に預けようとしたのか。
「これは……。」
 つかさが鞄の中から何かを取り出す。
 目の前に広げられたのは、大学院、大学、専門学校のパンフレット。
 その全てが例外なく、経営学かあるいはそれに準じる学問を取り扱っているものだった。
「…本当はずっと気づいてた。」
「……え?」
菓子職人(パティシエ)になる事は"手段"に過ぎないってコト。」
「手段……。」
「あたしね、パティスリー鶴屋に最初に面接に行った時、日暮さんにこう言ったの。」

「一流の菓子職人(パティシエ)になって、いつか自分の店を持ちたいです!」

「“アルバイトの面接で大げさな”って笑われたケドね。」
「らしいっちゃらしいけどな。なんつーの?そーゆー最初の引っ叩きから攻めてくって感じ?」
 少しずつ、笑みの零れていく二人。

「つかさ!…“自分を見つめ直せ”。」

「きっと、日暮さんの言葉もその時の気持ちを思い出せって言ったんだと思う。美味しいケーキを作って、いつか自分の店を構えて、食べた人の幸せな顔を見るのが、自分のやりたい夢なのに、目の前の手段ばかりに囚われて…そんな簡単な事も見失っていたんだね。」
「でも、手段だって大事だろ?」
 その言葉と同時に、それが一見菓子職人とはまるで結びつかない学問の扉を叩くという、“手段”に変わる事に淳平はパンフレットを見ながら少し首を傾げる。
「勿論そう。でも、壁にぶつかって、あたしは今まで逃げ出してた。実はフランスで教わることにはね、菓子職人としての技術だけじゃなくて、最後に経営のノウハウを学ぶはずだったの。いつの日か、独り立ちする時の為に。」
「それで学校…そうは言っても、机の上で学ぶ事とは全然違うかもしれないぜ?ってまぁー、高卒で何も知らん俺が言うのもおかしな話だけど。」
「そうかもしれない…でも決めたんだ。“どんな方向(みち)も、どんな出逢いも、絶対に無駄な事なんてない”。機織の少女の言葉…素敵な言葉だよね。淳平くんが赤線を引いて熱心に付箋を貼りたくなる気持ちもわかるよ。同じ事、友達にも言われた。」

「だけど、自分の方向(みち)なんて何処にでもあるもんだと思うんだ。」

「…やっと決心がついた。どうにもならないからって何もしないなんて、オロカだよね。」
 その言葉に、フッと笑をこぼして淳平が言った。
「そーだよ。全くらしくない。えーと…乗馬に英会話にフラメンコ、クレー射撃、気がつけば何処にでも臆する事なく向かってる。それが俺の知ってる“つかさSTYLE”だぜ?」
 そんな高校時代の行動がそのまま現在に移せる事など出きない事は誰もが分かっている。それでも、今のつかさに必要なのはその時の気持ち。
 自らの本分とも言える夢に向かう為に必要な手足をもがれた様なつかさに、だからこそその身に味わってなどいない淳平に、強く何かを言えるものではなかった。
 でもそれは本当に方向(みち)が閉ざされているのか?後ろを視るばかりで、誰かに守られるばかりで、何がつかめるのか?それこそは、淳平こそが一番分かっている事でもあり、しかしながら自らで気がつかなければ判らないものだ。
「色んな人が、あたしに助言をくれていたんだね。トモコも、日暮さんも、淳平くんも……、そして東城さんも。」
「別に東城は言ってないだろう。」
「いいの。あたしの中ではそういう事にしてる。……だからね。勝手だとか、嫌われててもいい、どんな風に彼女に思われてもいいから、…ただ伝えて欲しい。“ありがとう”って……!」
 溢れる感情が、またつかさの瞳を濡らす。しかし、今度はただ絶望に打ちのめされている訳ではない。
 少し立ち止まって、周りを見渡して、自らを支えてくれる存在に気づいた、そのちょっとした変化。
 それだけで、今まで出会ってきたものを全て愛せる気さえしそうな、女神の様に美しい笑顔と共にある涙――
「うん……。」
 ……けれども、そのつかさの笑顔が、淳平には彼女にも云えない、苦い想いを呼び起こす。

 つかさが去った後、中途半端に整理された自分の部屋。
 さながら自分の心、あるいはつかさと、あるいは綾との関係を物語っている様にも見えた。

(プルルル…ガチャリ)

「はい?」
「……………。」
「あ…あの……、真中くん………ですよ…ね?」
 かけられておきながら出来る間に、誰かが淳平の携帯を拾ってかけられてきたとでも思ったのだろうか。
 少しよそよそしく本来使う必要がない、戸惑った丁寧語で綾が尋ねてくる。
「………東城、今、時間いい?」
「え?う、うん……。」
「いや、ごめん。今じゃねぇとダメで……。」
 今でなければ、云えなくなりそうだった。
「……東城との約束、今度会う時は、“その時”だって約束、……一回だけ破らせてくれないか…?」
「……?う、うん…。」
「東城の都合に合わす。」
「そう言われても…、あたしの方が家に居る事多いから時間の融通が利きやすいし。」
「じゃあ…、2週間後の土曜、15時に泉坂駅前のファミレスで。」
「うん。……どうしたの?」
「……いや、それはそん時話す。」
「分かった。それじゃあおやすみなさい。」
「え?あ、ああ、おやすみ。」
 ブツッと切れた携帯を片手に中央の壁掛け時計を見ると、時刻は23時になっていた。
 淳平は手元の彼女のノートにちらりと目をやると、両手を合わせて額に置いた後、天を仰ぐ様に目を瞑った。


 (この間の事を、どう伝えるのがいいのだろうか……?)
 少し曇の多い空の下、淳平はずっと悩み続けていた。
 “この間”の前は、今日この日に泉坂に帰ってくることなど全く予定になかったが、冬にも一度彼女に会う為にやって来ただけにさすがに電車賃も乗り換えも覚えていて、その体は悩める心とは裏腹に実にスムーズに動いていた。
 予定の15時より早めの5分前に到着。いつもこういう時、ピッタリと5分前には到着してくるはずの綾がまだ来ない。
 彼女が共に過ごした学生生活の中で、遅刻をした様な記憶はない。とある一日を除いて――
 生真面目さとドジと、こういう場合は生真面目さが上回るはずなのに。 今は、さすがに多忙すぎてそこまで完璧に気を配る余裕がないのだろうか。綾の姿は見受けられない。
 淳平が単純に、珍しい、と思って気を抜くと、思わず右の通路すぐ横にもたれかかってしまい、丁度通りががかろうとした女性客に当たりそうになった。
 反射的に「すみません!」と淳平が言うと、相手は「ごめん!」と、イヤに馴れ馴れしい返答をした。淳平の一瞬の違和感を待つこともなく、彼女は「ここだったの。」と言い、正面に座った。
「え!?」
 思わず淳平が叫ぶ。
「どうしたの?」
 その美貌や背格好は、間違いなく東城綾だった。
 だが、淳平が驚くのも無理はない。
 つかさ程ではなかったが、彼女のセミロングの黒髪が、両肩が見える程に短かった。ここまで短いのは初めて見た。
「い、いや…髪が……。」
「え?あ、ああ……。」
 そうか、と綾は淳平の驚きの理由を知る。
「まだしばらく暑い日が続きそうだし……。」
「あ、ああ、そうだな。ス、スッキリしてて、それもいいんじゃないかな。」
「そう?ありがとう。」
 ある意味、突然の綾の髪型の変化があって良かったとも淳平は思った。
 いつものセミロング、一番見慣れた姿であれば、余計言いにくかったかもしれない。
「ごめんなさい。ぎりぎりまで本書いてたものだから。」
「いや別に。今丁度15時だし。」
「あっと…。忘れないうちに渡しておくね。」
「ん?」
 そう言って綾が差し出したのは、真新しい新書版の一冊の小説。思いもよらず見かけは可愛らしい女の子が載った、いわゆる萌え系のイラストが表紙になっている。
 だが、そこにはきっちりと「東城綾」の名が記されている。
「これ…新刊?」
「そう、来週発売。」
「なんか今回は随分と可愛らしい表紙だな。」
 率直な疑問を、淳平はぶつけた。
「うん。今、人気のイラストレーターの藤井ありすさんって人が描いてくれたの。」
「へぇ〜(こーゆーのも出すんだ……)。」
「それで…話って何?」
 彼女にしては随分とあっけらかんとしていた。
「あ、うん…。あの…特別なんかこう…緊急事態だとか、そういう訳じゃないんだけどさ…、どうしても直で伝えておきたい、伝えておかなくちゃいけなくて……。」
「あ、ごめん。店員さんが…。」
「え?」
 横を見ると、確かにウェイトレスが後から来た綾にお冷を差し出そうとしていた。
 二人とも軽く会釈をして、注文は後でと申し付けた。
 しかし、店員が来たのは偶然か。淳平には、綾があっけらかんとしている様に見えるのも、その様に意識してだろうと思われる表情で尋ねてきた気がした。事実、それが隠せる程に、彼女は器用ではない。
「それで…?」
 水に一口つけてテーブルに戻し、綾は両手を組んで真っ直ぐに淳平を向いて尋ねてきた。
「あ、うん……。どうしても伝えておきたいし、伝えるようにも言われてきて…さ。その………西野の、事なんだけど…。」
 その名を口にした瞬間、表情こそ変わらないが、綾の視線が斜め下に逸れた。
(明らかに…空気が変わった。)
 鈍感な淳平ですら一瞬で察知するほどだった。
「それで…あたしに何を?」
 何を話すことがあるの?とばかりの語気が、不安の中に少しだけ混じった。
「いや、ごめん…かいつまんでだけど、一から話そうと思う。実は、アイツは今フランスから予定より早く帰ってきて…。」
「フランス?」
「え?あ、ああ、そうか。アイツは高校卒業後の進路が、菓子職人になる為にフランス留学だったんだよ。」
「そうなんだ。噂話ほどしか知らないから。」
 そうか、と今更に淳平は気がついた。
 あの日以来、淳平は一度も彼女の前でつかさの名を口にはしていない事に。
「…でも、不慮の事故で利き腕を怪我しちまって…。」
「……え!?」
 思わず綾が両手を合わせて口許に持っていく。
「早期帰国を余儀なくされちまった。」
「そんな……。」
「普通に地元の会社で働いてるけど、正直この1年近く全然アイツらしくなかったよ。」
 淳平にとってより正確を記するなら、“悪い意味でつかさらしい”というのが正しいだろうか。
 マイペースに器用に何処へでも行きそうな前向きさとその笑顔は、その実、支柱となる目標が無くても、油が切れても動き続けようとした。嘘の笑顔を繕うとして、夢の代わりを淳平の存在に置き換えようとして、自らさえも欺きかけようとしていた。
「そんな時…、たまたま俺の家の本棚に置いていたあのノートを読んじまったらしい。」
「………!!」
「…悪い。別に読ませるつもりはなかった。」
「…いえ、あれ自体はもう、あたしの手から離れたものって思ってるから……。それを読んで…?」
「帰ってきたら、それを読みながら泣いてて…、どう解釈したかは上手く説明できねーが、ようやく前へ進める勇気が出てきたって言ってた。菓子職人としての技術の修行はひとまず置いて、経営の勉強をするらしい。将来は自分のケーキ屋を持ちたいってさ。」
「そう。…それは良かった。」
「それで、これを預かってきた。」
 淳平は、こじんまりとした封筒に入れられた手紙を机の上に出す。
「あ、中身は勿論読んでない。それに、読む読まないは、東城の自由だから。」
「…ううん。今読んだ方がいいと思う。」


“東城さんへ

 5年以上の月日が経っている中で、あなたが私に対してどういう感情を持っているのか、どう言葉にすればいいか、正直悩みました。
 普通なら、多分私達はもう二度と会わない方が互いの為だという事も分かっています。
 この手紙を読んで、あなたにどう思われたとしても構いません。うらんでいいよ。
 ただ、あなたに一つだけ伝えたい。“ありがとう”と。
 あなたのお陰で、私の周りを包む多くの人々の想いに、気付くことができました。
 あなたの小説は、本当に素晴らしかった。あなたには他人に与える“力”があります。
 その“力”をめいいっぱい、いつの日か淳平くんと共に、世界の皆に届けて下さい。

 最後に。
 あの雪の日の事は、きっとあなたにはあなたの、淳平くんには淳平くんの、それぞれのものであって、
 私が決して触れてはいけないものだと思います。
 ただ、あなたの目に映る最後の私の顔はきっと醜いものだったのではないかと思っています。
 そのままで時を過ごしてきている事が、今は少し心残りです。
 いつか私も夢を叶えたら、美味しいケーキをご馳走するので食べに来て下さい。
 勝手で独善的なことだと思うけど、その時は、笑顔で会える事を祈って。

 2010年8月22日 西野つかさ”


「………弱った時に読む本って心に残りやすいってよく言うよね?」
 手紙を読んでの第一声が妙な疑問である事に、神妙な面持ちで見ていた淳平はキョトンとしながら答えた。
「え?あ、ああ。」
「きっとそれに近いんじゃないかな。買いかぶりすぎだと思う。真中くんに書いたあの小説は、決して完成度も高くないし、…何よりもあたしに想いを伝える勇気が無かったから、あの頃の関係を変える事が怖かったから、代わりにずっとこれを書き続けてきたものでもあるもの。」
 (俺もだ…。)という言葉を、淳平は喉から出る寸前で食い止めた。
「……でも、こう言って貰えるのは嬉しい。あたしの小説が役に立てたのなら、…本当に良かった。それに……。」
「それに?」
「……ズルいよ西野さんは。いつもあたしのしたい事を先にやって…。」
 そう言うと、綾は少し照れくさそうな、しかし苦味も混じらせた切なげに潤んだ瞳で、つかさと同じく女神の様な笑みを浮かべていた。
 彼女もまた、同じ心残りをずっと抱えてきたのだ。
 しかし、やはりつかさと同じくその笑顔が、淳平に、二人には決して言えない苦しみを呼び起こす。
(目を背けるな……俺!…これが、俺が選んだ結果なんだ!このわだかまりを生んだのも、全部俺なんだから……!)
 失いかけた少年と少女を結ぶ架け橋だけでなく、少女と少女を結ぶ架け橋が、未来に描かれる。傷つけた事の痛みという、少年の消せない過去と共に――
 2010年9月6日、二人が出会って8年目の夏の事だった。



←■SCENE-22:『同床異夢』 ■SCENE-24:『Scarletの憂鬱』→