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■SCENE-24:『Scarletの憂鬱』


 ある時は、綾の悲しみよりも、つかさの憂鬱な表情の方がつらくさせた。
(今は、二人の笑顔の方がつらい……。)
 別れても目に灼き付いて離れない。
 物憂げに手元のコーヒーを見つめながら微笑む、綾の笑顔。
 ほんの少し、目尻に涙の様なものが見えた気もしたが、彼女自身がそれを押し止めている様にも見えた。
(アイツの笑顔も、言葉も、本心だと判るのに……。それ自体が、アイツに無理を強いているんじゃないか……?)
 何度も自問を重ねてきたこと、紡ぐ約束も可能な事なのかと。それは物理的な可能性ではなく(そんな事は誰がどう見ても無理であり、そんな事は承知の上だ)、自身と綾の精神的な問題として、漠然とした不安が淳平を襲う。
「今からでも……、俺は東城との約束を白紙にすべきなんだろうか……?」
 精神的な問題を考えれば、物理的な可能性とも繋がる。未だできる保証もない約束、共に果たす相手をずっと傷つけている結果があの笑顔だとすれば、何もせず、二度と逢わない方がいい。
 引き返すなら、今のうち。まだ何もしていないのだから。
 そう判断することも、愚策とは言えない。ただ、前向きではないというだけの事だ。
 しかし、たった今二人の笑顔を結んだのは、それこそがあの小説であり、自らが交わした綾との約束ではないか。
「引き返すなんてできるワケねー……。」
 と、そこへプルルルルとよく聴く電子音が流れる。陰鬱な思索から淳平を救ったのは一本の電話だった。

“北大路さつき”

(何でこんなタイミングで……。)
 そう思いながら通話ボタンを押す。
「おっすー。」
「……何?」
 隠そうともしない淳平の暗い声に、さつきはそれとなく電話をかけた事を軽く後悔をした。
(…こりゃ何かあったな…。タイミング間違ったか。)
 それでも、さつきの持ち前の快活さが、淳平と違ってすぐに明るいトーンの声にさせた。
「あ、あのさぁ!」
 が、後日、その後悔は正解とさつきは理解する。


「ほーんと、なんでこんなタイミングで声かけたんだろ…。」
 数日後、ぶっすーとふくれっ面をして呆れた様に淳平を見下ろすさつきが居た。
「そりゃ悪うございましたよ。っていうか何で関東(こっち)に戻ってんだよ。」
 二人が居るのは、さつきが働く京都の料亭ではない。
 それに比べると随分とこじんまりとした小料理屋だ。
 カウンター越し内側には着物を着たさつき、外側の一席には淳平。
「何よ?戻ってちゃ悪い?仕方ないでしょ、転勤なんだから。」
 さつきは親戚の京料亭で次期女将として修行しながら働いている。
 そんな料亭で、ごく普通の転勤などある訳がない。
「だから、料亭じゃないけど、東京にも店出す事になって、将来の修行って事で切り盛りしろって言われたのよ。」
「ふ〜ん、じゃあ実家に戻ったんだ。」
「バカ言わないでよ。ウチただでさえ家族多いのに狭いし、戻りたくないわよ。」
「ふ〜ん、それじゃ京都組は結局皆こっちに戻ってきたのか。」
「まぁあたしはその内京都戻るだろうけど。」
「美鈴はこっちだろな。」
「その方が仕事しやすいだろからね。」
「何処住んでるっつってたっけ?練馬だっけ?」
「カレシが漫画家だからね。」
「え?漫画家だと練馬区って決まってるの?」
「結構多いらしいよ。ちなみがこの間まで声優してたアニメの原作者もその辺って聞いた気がするけど。」
「…なんかその話はこの辺でやめといた方がいい気がする。」
「?」
 一息ついて淳平が言った。
「…にしても、それじゃ割と同窓会とかもやりやすくなったのかな。」
「………なんかさっきの話聞いてると、そこにはアンタか東城さんかどっちかしか来れないみたいだけど?」
「そうだった……。」
 ガクッとうなだれる淳平。
「ま、アタシから言わせれば下らん意地だなって思うけど。……階段の一段目以前に、足元見るべきだったわね。」
 しれっと冷たい顔のさつきが語りかける。当然とも言うべき意見だった。
 綾との出会いのきっかけとなった彼女の数学のノートの小説を映画化しようなどと一人で意気込むよりも前に、その事を当事者たる綾がどう考えているかを受け止め、確かめ、共に夢を見る約束を交わすよりも前に、それを今、傍らに居るつかさがどう考えるのか。
 そんな事にも気付かないで、どうしてつかさを慮っていると言えるのか。
 まして、そんな事を何らの義理立ての必要もないさつきに指摘されるなど、何よりも恥ずべき事だった。
「結局…、俺はなんもしてねぇ……。」
「そうね。」
「俺は、東城との約束のことも、西野に話さないで…、勝手に“解ってくれる”と思ってとか…、いや、違う。西野の前で東城の名前を出す事も、その逆も、怖かったんだ……。拒絶されるのが……。」
「……………。」
「それで、気が進まないままに何もしないで、事態は勝手に東城のノートで勝手に好転してて…俺は、何もしてねぇ。何もしてねぇ!くそっ!俺は何だ!?何なんだよ!?西野の言葉を東城に伝える、ただのメッセンジャーボーイかよッ!!?」
「真中……。」
 ビールが僅かに残るコップを思わずダン!とカウンターに打ち付ける淳平の姿に、自身への凄まじい怒りを隠さない淳平の姿に、さつきも驚き、たじろぐ。
「チクショウ……、サイテーだ……。」
「……今に始まったこっちゃないでしょ。調子の良い事言って威勢良い割に、肝心な処に触れたがらないその性格、なんとかしたら?」
 再び冷たく当たるさつき。
 何の恐れも抱かず仮面も被らず、自身の感情や素顔をさらけ出せる、という、さつきも淳平の互いの認識は知り合った頃から共通していた。
 しかし…、
(そーゆーこじれた話をアタシには言えるってどーなのよ……。あたしはアンタの何なのよ!ったく……。)
 淳平本人の悩む姿とは裏腹に、さつきは却ってバカらしさに拍車がかかっていた。
「……ま、アンタがどう考えようと、今更時が戻せる訳じゃないわ。二人がOKなら結果オーライってヤツでしょ。でもその条件は、アンタが東城さんとの夢を叶える事で納得できるものなんでしょ?そんな風に腐ってるヒマあんの?悩むのは勝手だけど、傍から見れば代わりに背負い込んでるモン、重いわよ?」
 淳平の煮え切らない態度は、さつきが最もよく知り、最も嫌いな処だ。
 引き返せない過去よりも、次を考える方がよほど建設的なのは、誰だって分かる事。
「だな……。」
「………。」
 綾にもつかさにも決して見せる事はない、さつきだけが知る、醜い姿を臆面もさらけ出す淳平。
 でもそれは、皮肉な程にさつきが知りたいとは思わない、綾とつかさの事ばかり。
(やっぱ、ヤーな男……。)


「わぁ〜凄い量。」
 目を丸くしながら、静香と一緒に運んできたダンボールを見つめる綾。
 毎日の様に、彼女と仕事する自室、何らの変哲もない日常が、少しだけ驚きに包まれる。
「こんなにファンレター貰ったの初めてかも。とても読みきれないよ。」
「客層が違いますからね。送ってくるのも10代の女の子なんかが多いかな。」
 綾にとって、初めてとなるライトノベル『DREAM CATCHER〜LEVEL:A〜』が発売され、3ヶ月。
 結局以前語っていた「GATE」というキーワードは「LEVEL」に置き換わる事となった。本人曰く「本当にタイトル決めるのが苦手」。
 親しき者をしても、“漫画に出てくる様な絵に描いた様な文学少女”と形容する彼女らしくないこの作品。発売されてからの反響は小さくなかった。
 あえて自身の得意とする方向性から全く反対の方向性から攻める。その試みは言うまでもなく大変だったが、お陰で新しい読者も獲得できた。
「ラノベ班のお偉いさんとウチの編集長、喧嘩してましたよ。綾さんの取り合いで。」
「それは…、ありがたい事なのかな。」
「それは勿論。でも意外ね。綾さんがこんなにやんちゃな少女漫画みたいな作品書くなんて。」
「あ、あんまり言わないで…。今でも恥ずかしいんだから……。」
 たとえそれまでとは違う方向であろうと、作家たるもの、それも自身の内から生まれるべくして生まれた作品である。元々の性格からいっても綾の恥ずかしがる感情は全く自然な反応だった。
「それで、次はどんな作品を描きたいとかってありますか?」
「ん〜…ぼんやりとやりたい事はあるんだけど……。」
「?『DREAM CATCHER』の続編ではないって事?」
「いえ、あの……、今回あえて全く違うタイプへ挑戦したのは確かな手応えも感じられたの。でも、今はもっとこう根本的な所を見直したいなって……。」
「……?」
「……あたしの書ける事って、実は凄く狭い世界の中だけだなって思うの。24年間、高校、大学と出て小説家にもなれたけど、結局頭の中で想像したばかりで生の体験が少ないっていうか……。」
 確かに、綾の才能のルーツは自身の体験よりも、過去の読書経験の方がウェイトを占めているとは言える(勿論、それを糧にして自身のオリジナリティを確立できるというのは半端ではない膨大な経験値があってこそのものなのだが)。
 はっきり言って、綾は人生経験というものについては少なくとも多彩とは言い難い。
 何不自由なく小中高と進学してきたし、日本の世間一般で色々と経験を積む為に課外活動に精を出す大学では、既に小説家の仕事を始め、学業もあればそれどころではなかった。自立という意味での社会人経験は考えてみれば淳平やつかさ、ヒロシなどよりも多いという事になる。
 だが、会社勤めもアルバイトもないし、読む側一本から書く側にも回ったとはいえ、彼女の人生のほとんどは「小説」一色である。元来の生真面目さは彼女に何かを一途に追い求めたら誰にも追いつけない程の熱をもたらしてきたが、それだけではいつかは行き詰まってしまう。
「でも、それでどうするのですか?」
「……海外にでも行ってみようかな?って。ちょっとアテがあるの。」
「それはいいですね!ウチで仕事してもらってからずっと働き詰めだし、単なる気分転換としてだけでも良いかも。」
「それにしても…、なんか卒業してから1年半…色々とあったなぁ。」
「大学時代は結構“退屈”とも言ってましたものね。」
「え?そんな事よく言ってたかな?」
「あら、気づいてなかった?」
「………。」
「……どうしました?」
 途端に何か見落としたものを思い出すかの様に眉をひそめて考え込む綾に、静香が尋ねた。
「……それは……大学よりも高校の時の方が充実してたって事なのかな…?」
「…んー……充実という意味をどう捉えるかにも関わるんじゃないかしら。あたしも大学時代の友達より、高校時代の友達の方が、なんかこう…何の気兼ねもなく付き合える人が多いですよ。やっぱり高校の友達って特別な存在じゃないかしら。大学に入れば、いずれ社会が見えてくるでしょ?付き合い方なんかも少し大人っぽくなるし。高校卒業で働きに出るコも居るけど、大学の受験生なら少なくともそこがまずはゴールって思うし、それは結構…少なくともあたしの場合は、大学を卒業する前の就職活動よりはっきりしていると思ったかな。目標がはっきりしている分、高校生活の3年間という箱庭は、目一杯勉強もするし、遊ぶこともできる。それが何処まで実があるかって意味では必ずしも『充実』とは言えないかもしれないけど、そうやって全力で何かに夢中になれる一番の瞬間を過ごした仲間って、やっぱり特別な存在だもの。」
 彼女がこの様に語る姿は少し珍しいが、作家と編集者という立場を除けば、見た目にはさほど変わらないのだがやはり静香は綾よりも5つ年上である。高校時代という誰もが過ごす華やかなりし瞬間は、社会人経験としては先輩の静香だからこそ大切に感じられるものでもある。
 クスリと笑うと、静香はより綾に顔を近づけて言った。
「今でも時々…、『本当にこの人があの東城綾?』って思う時があります。小説を書いている時は、とても凛として美しいのに、簡単な事で不安になって、素顔はどうしようもないほど繊細で、驚くほど普通の一人の女の子の様にも見える……。」
「女の子って……。」
 あと3月もしない内に24歳にもなろうというのに、さすがに「女の子」はないだろう、と率直に綾は思った。まして自分と同い年位の童顔の風貌で、5つも年上の女性に顔を近づけて言われれば、恥ずかしくてしょうがない。
「…大丈夫です。作家としての東城綾は、あたしが一番傍で支えますし、5年前に出会った時よりも、多分きっと5年前もその前よりも、今のあなたには、あなたを支える人は大勢に増えているはずです。そういった方たちが居るから、綾さん自身も必ず成長しています。いつも言ってるでしょ?もっと自信持って下さいって。」
「……そうね。」
 その返事を聞くと、スッと静香は机の上に広げられた資料を手に取り、何も言わず微笑みながら去っていった。
 沈む時間が日々早まる夕陽が部屋に射し込む中で、バタン…という音が響く、少し幻想的な秋のワンシーン。
 力強く響く静香の言葉。さすが編集者とも言うべきだが、5年もこの部屋で共に仕事をすれば、仕事上の付合いだけではない、自身を支える存在を思い浮かべる度に、思い浮かべる存在とも並ぶ。
(今あたしが追い求めようとしている方向は、明らかにあなたの影響……。)
 ただ同時に、自身を支える存在を思い浮かべる度に、彼女の存在とは関係なく、いつも最後に引っ掛かる存在――
(あなたに出会って、恋をした過去(こと)は、あたしを強くさせているの?それとも弱くさせているの?)

東城、受け取れ!」
「えっ…?」


(あたしは…、その場所に立てるのだろうか……?)
 静香の言葉を芯に響かせども、それを強く信じられる程にまだ器用ではない。その姿は、静香が形容する、どうしようもないほど繊細で、驚くほど普通のある一人の少女の肖像とも言えた。



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