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■SCENE-25:『Feel the Revolutions』


 秋も深まる10月末。
 長引く猛暑の影響で、先月まで効き過ぎるほど効いていたはずのオフィスの空調も、今では嘘の様に稼働を止めて、外に出ても幾分過ごしやすい季節になっていた。
「失礼します。」
 ドアから出てきたつかさが頭を垂れてコツコツと廊下を歩き出す。
 すぐに迎える曲がり角を曲がると、晶が微笑みながら待っていた。
「やほ。どうだった?」
「……留意されちゃいました。」
「うーん、だろうねぇ…。西野さん使えるし。本当驚異的なスピードで仕事覚えるし。器用だしね。」
「…でも、結局お断りしてしまいました。本当にすみません。皆さんには本当に良くして頂いていたのに……。」
「なーに言っとるかね!君は入って1年ちょっとの新人だよ?西野さん一人いなくなってもどうって事もなく会社は動くよ。」
「………。」
「ま、一部そうじゃないよーなオッサン、オニーサンも居るみたいだけどね。」
 つかさが居なくなると知ってか、ここ数日一気に仕事に精が出なくなっている社員(野郎100%)が何人も発生していた。普段、部下に喝を入れる管理職ですら、あまり身が入っていない。なお、そんな野郎共を見る女性社員の目も若干冷ややかにも感じられる。ある一人の若手社員なんかは本気でつかさに恋をしていた様で、今日はショックからか有給休暇を取得しているという有様だ。
「……でさ、そんなおぢさん達の心配よりさ、君自身の方の心配をした方がいいんじゃないの?」
「へ?」
「…言い難いんだけど、ボクもあまりお勧めできないよ?ウチの会社、規模は小さいけど経営状態は悪くないし、さっき言った福利厚生も整ってると思うし、決して待遇が悪くはないのに、こんな時代に……。」
 言いかけたところで、つかさが首を横に振る。
「……あたしも少しだけ、悩みました。大学受験も蹴って菓子職人になるって親に言っておいてコレで、運良くここで働ける事になって、ようやく両親をホッとさせられたと思ったんですけど。でも、両親もいい加減あたしの性格を分かりきってるみたいで、『止めても無駄だろうから好きにしろ』って。」
「将来はケーキ屋を経営したいんだよね?」
「ええ…。やっぱりそれがあたしの夢ですし、大切な人達との約束なんです。」
「ま、しょうがないね。会社は給料と福利厚生の面倒を見ても、夢とか幸せとかまでは決めてくれないからね。大切な人、か……それって彼氏?」
「…それだけじゃないですけど。」
 晴れやかに語るつかさを見て、晶は神妙な面持ちで語り始めた。
「ボクにもね。」
「?」
「高校時代…だからもう15年近く前か。大切な男友達が2人いたんだ。元々ボクは男の子みたいな育てられ方して…あー、育ち方かな。妹の緑はフツーに女の子の趣味してたし。で、まぁ別に女友達もいたんだけどさ、何かその2人とはウマがあってさ。3人とも親が放任主義だったりしたせいか、いつもつるんでた。で、その中の一人がボクは好きで、しかも驚くことに、もう一人の男もソイツの事が好きだったんだ。」
「……え?!ちょっと話が…晶さんが女性で、あとの2人が男の人って…??」
「うん、そゆ事。まーそれが分かってからはちょっとギクシャクもしそうになったんだけどさ、だけど、そんな一介の高校生の感情なんかには手に負えない事態が起こった。その好きな男の子の両親が、離婚する事になったんだ。」
「……!」
「結局そいつとは離れ離れになって、ボクの恋は終わり。もう一人の奴ともってゆーか、恋敵だったワケだけど、そいつとも大学進学で別々になった。」
「……。」
「意外にあっけないもんだよ。ずっと留めておきたい瞬間のハズなのに、いつまでもこのままでいれば……って思ってたのに、気づけばそんな時は通りすぎて、それに慣れている自分がいた。あの時はあの時の思い出として、このまま見知らぬ人になってくのがいいのかなって…。」
「………。」
「でもさ、最近そいつが今何処で何しているか気になってね。こういうのきっかけないと腰上げにくいけど、だからこそ思い立って人に当たったりしてちょっと調べてみたんだ。」
「あ……。」

「…まもる…、今何処に……?」

「それで…?」
「フツーに会社員やってて、フツーに全然知らない女の人と結婚してて、フツーに幸せに暮らしてた。今度子どもが生まれたらしい。女の子。それ聞いてすごくホッとした。何処かむず痒い感覚だけど、もう一人の奴と一緒に、今度そいつの子供見に行こうかって約束してる。あ、もう一人の奴って今の旦那なんだけどね。」
「……あたしにも一人、そういう人がいます。普通に考えれば会わない方がいいはずなのに……。」
「会おうと思わなきゃ会えないよ。ボク的には音信不通だったソイツが幸せに暮らしてるってだけで嬉しくなれた。聞いただけで嬉しいんだから、今度会うのがすごく楽しみでワクワクしてる。全てはキミの気持ち次第。まぁ会うべき時に会うってものかもしれないね。それを『運命』と呼ぶには、…都合良すぎるかな?」
「『運命』か……。」
 淳平は勿論のこと、まさか綾ともまたか細くも繋がりができるとは、到底想像もつかなかった。しかもこれがまた拡がろうとしている予感。これはもう奇妙な偶然、というものを通り越して、微かに「運命」という言葉で片付けたくもなってしまう。
「色々、世話になったね。」
 スッと手を差し出す晶に、つかさも手を握り返した。
「あたしの方こそ本当に、お世話になりました。晶さんに色々相談できて本当良かったです。」


「そうか……。」
「色々ご迷惑をおかけしました。」
「いや、謝るのは俺の方だ。お前をフランスに行かせなければ、こんな事には……。」
「でも、日暮さんに出会わなければ、あたしは自分の道を見つけてはいません。それに、これからまたご迷惑をおかけします。」
「……いいのか?たとえ店を構える事、経営ってのは、菓子職人になる以上に難しい。たとえそれが出来たとしても、お前自身はケーキを作れるか分からないんだぞ?菓子職人ではない経営者像なんて、俺自身がそうでない以上、教えられない。」
 それは、最も近しく在りながら、決して辿り着ける事のない映像(こうけい)――
「それでも、進むのか?」
「ええ。あたし、一度決めた事は誰に言われてもやり遂げなきゃいけない性質タチなんで。」
「そうか。だったら、俺も何も言う事はない。」
 スクっと立ち上がり、龍一はまるで弟子を誇らしげに見る師匠の様に返事した。
「分かった様だな。あの時のお前のケーキでは他人を感動させる事はできない、と語った意味が。」
「……はい。相手に喜んで欲しい、作ったケーキを食べた笑顔が見たい。その為の技術は確かに大事だけど、自分が笑顔でなければ、相手も笑顔で食べてくれるはずなんて…ないですよね。」
「そういう事だ。アルバイトの1日目、一番最初に教えた事だろう?笑顔で『いらっしゃいませ!』と言ってケーキを運べって。」
 ククッとしたり顔で語る龍一に、つかさは舌を出しながら言った。
「基礎がなってませんでしたね。」
「“行き止まり”と分かっている道を歩ませる訳にはいかないが、“切り拓ける”道であるなら、俺も協力は惜しまない。しかし、ボーナスも出せないし、福利厚生といったってせいぜい制服支給したり売れ残りがまかないになるくらい。決して賢い選択ではないぞ?」
「いえ、以前に比べると拘束時間が減る分、その時間を勉強に充てる事はできますし、ケーキ屋とは全く関わり合いのない状態というのもどうか、という判断です。」
「ふむ。一理ある。しかしそれにしても……意外だな。」
「何がです?」
「ケーキ作りもレジ精算も、驚くほど器用にこなしていたのに、生き方は案外不器用なんだなって。」
「不器用な生き方、ですか……。」

「…西野のそーゆーとこ、その…すごくいいなって思う。けど、西野に甘えっぱなしじゃやっぱ夢は叶わないと思うし。」

「その辺は、あのボウズの影響か?」
「……いえ、それだけじゃないです。今のあたしを衝き動かしているのは、同僚、親友、離れ離れになった人からも力を頂いています。それから師も……。この右腕がそれを教えてくれたんです。だから、その人達には負けられません。」
「……そうか。お前にその決意があるのなら、俺で良ければいつでも力になる。しばらくは現場ではない事務に入ってもらう訳だが、少なくともケーキの事に関しては俺以上の適任はいまい?」
「ありがとうございます。千人力です!」
「ようし、それじゃ春からまたウチを手伝ってもらうって事だし、色々やって欲しいことはあるぞ。」
「?なんですか?」
「今度出す3号店は、いよいよ都心に出店だ!何としても成功させなきゃならん!だからつかさには一つ、広告塔になってもらう!!」
「え!?」
 龍一からの思いがけなさ過ぎるにも程がある計画に、つかさは慌てて反対の意を示そうとした。
「あ、あたし、そーゆーの高校の時で懲りてますし、日暮さんもツルさんが勝手にやった事だからって……。」
 だが、龍一はそれまでの温和な表情から人が変わった様に押し通す。
「何を言うか!郊外から都心への挑戦だぞ!今までとケタ違いのお客様に質を落とさず美味しいケーキを食べてもらう!販売計画ではもう4年で投資資金を回収する事になっている!3支店全体で今年の2倍の販売計画は目指しているんだぞ!その為には利用出来るものは何でも利用する!」
 その目は完全に商売人の目であった。
(春からどうなるんだろう……?)
 高校時代と変わらない勤務先なのに、ただならぬ恐ろしさを覚えたつかさだった。


「一年ってはっやいねぇ〜。」
「そうだね。」
 オープンテラスのカフェで、感慨深けにズズズ……と、アメリカンコーヒーを口にするトモコと、傍らにはつかさの姿があった。
 ちょうど一年前ほどに、二人してカフェを嗜んだ場所だ。
「どうでもいーけど、トモコ、ここで美味しいのはセイロンティー(HOT)って言ってなかったっけ?」
「あれ?そんな事言ってたっけ?」
「言ってた。」
「まーまー、アタシ別に紅茶党とかコーヒー党とかないし、どっちも好きだしさ。」
 一方のつかさは、去年そのトモコが推していたセイロンティーを口にしていた。成程、美味だ。もっとも、あっけらかんにこう話すトモコの様子を見ると、あまり本人が語る程のこだわりはないらしい。
「しかし、結局またあのケーキ屋で働く事になるとはね。」
「またと言っても以前とは全然違う事やるし、店頭に出る事はないけどね。」
「あれ?そーなの?」
「うん。経理とかが表に出るのはおかしいでしょ?」
「いや、でも店頭はなくても高校の時みたいに雑誌に載っちゃったりなんかすんのかな?とも思ったんだけど。」
(……なんでそんな所、無駄に鋭いのよ……。)
 龍一から要請があって実際にはどうなるか判らないものの、つかさは親友の無駄に鋭い無駄な勘に無駄に感心してしまう。
「どう?何処に自分の道が転がっているかなんてわかんないモンでしょ?」
「ん……。そうね。いや……?」
「?」
 一瞬の同意を翻すつかさに、トモコは不思議そうな顔をする。
「……本当は、道は変わってはいない。そりゃ全然違う事に興味を出して頑張るというのならそうとも言えるけど…、あたしの場合は、ただ進むのを怖がってただけだよ。菓子職人になるのは危険だって止める事になって、…ケーキも作れないのに、ケーキ屋なんか出来るのか?とか、この不況だし、考えたら不安になる一方……。一時は、毎日ボロボロの淳平君の事を支えるのが生き甲斐にすべきなのかなって事も考えたけど……。」
 それでもつかさに残ったのは、自らの夢。いくら恋人とはいえ、他人の夢を見つめて、“それを自分の夢だ”等と考えるのは、ただ己を欺くだけの嘘にしか思えなかった。
「アハハ、それ何のキャラ?そーりゃつかさには似合わないわ。何か失くせば全部変わっちゃうほど、アンタはちっぽけじゃないよ。」
 明るく振舞うトモコだが、内心は少し、つかさらしからぬ発想に、よほど彼女が参っていたのだという事も感じた。
「だね。ボロボロの彼を見て、同時にこうも思ったの。何も言わないけど、彼の背中が語っている様にも見えたの。“オマエは何をしてんだ?”って…。不可能な事を百も承知の上で、それでも愚痴も零さずに日々を闘う姿を見ると、こんな事で悩んでる自分が恥ずかしくなってさ。」
「いやまぁ…、アタシからすれば、あんな環境の変人と比べるのが間違いな気もするけど……。」
 ごく一般的な感覚からすれば、トモコの反応は至って普通だろう。
「あ、ひっどーい!」
「だって、アンタ達の付合いって、フツーじゃねぃですよ。数ヶ月会わないのも当たり前とか。」
「うっ……!」
「しかも今度はアンタまで朝から晩まで勉強と仕事だろ?」
「うう………。でもね、やっぱりあの姿を見ていたら…!」
 そして、あの小説を読んでしまえば――
「やっぱりじっとなんかしてられないよ!!なんだか、あたしの中で革命が起きてるみたいなって感じ?」
「ふ〜〜ん。まぁ、楽天家のアタシにゃよーわからんけど……。友人のアタシ的には、アンタがそうやって笑顔でいてくれたらそれでイイよ♪」
「…ありがと。」
「じゃあ、人生のアドバイス料って事で、ここはおごってよ。」
「なんでよ?去年もあたしが払ったじゃない!ここは『生まれ変わったつかさちゃんに乾杯で!』って所じゃないの?!」
「何が生まれ変わっただよ!ハズカシー!!」
「もー、すぐ茶化すんだから。」
「生まれ変わるなんてないし、つかさはいつだってつかさだよ。」
「……。」
「ほら、イイ事言ったと思ったでしょ?だから奢りで♪」
「くぉの〜!」


「フーッ…今日も真夜中か。というか未明だよな……。」
 淳平の手元で光る彼の携帯電話は、実際にはそれよりも遥かに少ない2/3の残量を示す電池の表示と、隣には3:30という表示がされていた。
 都内23区内とはいえ、淳平に華やかなネオンが深夜でも光る様な都会に住めるはずもなく、周りは真っ暗闇だ。
 この日の淳平は決して前日の朝から仕事という訳ではないが、昼には現場に出ていた。それを考えれば15時間は優に超える撮影時間であり、眠気と疲労は言うまでもなく溜まっていた。しかもこの日も午後から昨日の繰り返しである。
「……灯り?ゲッ…俺消してな…!…いや、出たの昼間だし…?」
 電灯が点けられているのを見て、慌てた淳平の頭に浮かんだのは電気代の事だった。が、1日の電気代を気にする様な男が真っ昼間に電灯など点けているはずもない。
 誰かが点けた。誰が点けた……?不測の事態を除けば、それくらいは大体想像がつく。
 時間も時間。淳平はそろりと玄関の扉を開ける。
「………ちゃんと片付いてる。もしかして西野が…?」
 いかにも独身男性が住もう様な部屋だったが、しばらく前に彼女が中断していた片付けは綺麗に終わっていた。
「やっぱりか……。」
 ドサッと鞄を落として、眼前のつかさを確認する。
 灯りの点った狭い部屋の中、折り畳んで若干の高さを得た淳平の布団に、彼女は横座り状態で上半身を預けてスヤスヤと眠っていた。
(……気持ち良さそうに眠ってるし、起こしちゃ悪いな。)
 真夜中に仕事から帰ってきてする事の選択肢といえば、「風呂に入ってから寝る」か「寝る」に限られる。
 どうやら選択肢は後者しかないらしい。幸い、帰る前に撮影所のシャワーを借りていた。
 寝間着に着替え、淳平は電灯を消して寝ようとするが……。
(布団取られてちゃ寝られねぇ……。)
 華奢だからか、預けた姿勢がちょうど良かったのか、かろうじて頭を預けることの出来る布団のスペースくらいは彼女の体は残していた。
(…………ここかよ……。)
 そんな状況に淳平が戸惑うのは当然だった。
 だが、他に場所もなし。起き続ける体力もなし。ありでもいいものを、つかさを起こすという選択肢もなし。
 携帯電話を充電器に付け、薄手の毛布を彼女にかけ、電灯を消す。そして、仕方なく淳平は上に羽織るものもなしに開けられたスペースに頭をあずけた。
 眼前には当然、つかさの顔がある。
(起きたらビックリさせちまわないかな……。なんか前にもこんな事あったよな……。)

「……西野!?…俺のベッドに…。これは夢か?」

「だって横になってみたかったんだもん、淳平くんのベッドに。」


(ああ、あん時か……。っていうか俺がビックリさせられてるんじゃねーか…マイペースな奴だよな、あの頃から。)
 昔を懐かしむが、この疲労度と、さすがに慣れたものなのか、淳平もまたすぐに眠りに就いた。

 次に淳平が意識を取り戻したのは完全に朝だった。
 窓際に配置された布団(折り畳まれた)を枕に寝ていた淳平には後ろから陽光が燦々と降り注いでいた。
「ん……!」
 陽の光は人間の体を覚醒させる。二度寝をする事もなく気持良く起きた淳平だが、瞼の映像と反応はまだ鈍い。
「おはよ。起きた?」
「ん……おはよう。……じゃねーよ。なんで帰ったら他人の布団で寝てるんだよ。」
「あら?別に前にやっちゃった時だって別に怒ってなかったし、ヘーキなのかと思ってたんだけど。」
 かろうじて出したツッコミに、目をしばたたいていると、ようやくつかさの姿も確りと捉えられた。寝ている間に着替えたのか、服装はよそ行きながらも、エプロンを付けている。
「……入る気もしないっつってたクセに。」
 その姿に戸惑いを隠す様に、悪態を突きながら淳平は顔を洗いに向かう。
 戻ってくると、起きて視界には入っていたものの触れてはいなかった、テーブルの上のおにぎりに注目する。
「これ、握ってくれたの?」
「昨日からありましたぁー。」
「え?本当に?」
 意地悪そうに間延びした語尾がつかさの機嫌を物語る。こちらに寄ろうとも向こうともせず、キッチンで料理をしながらの返答だ。
 取っていない可能性すらある夕飯から大分経っている事を考えれば、絶妙なタイミングで置いておいたはずの、塩おにぎり。待つ間にうっかり眠ってしまったし、さして手間のかかるものでもないが、何はなくとも喜ぶだろうと思ってこしらえたのに肩透かし……。さしずめつかさの考えている事はそんなところだろうか。
 だが、淳平にだって言い分はある。タオルで顔を拭きながらこう答えた。
「だって、帰ってきたら部屋の灯りは点いてるし、突然勝手に上がりこんでるんじゃ嫌でもその張本人の方に目行くだろ?」
「あら?あたしたまに勝手に押しかけてきた事あったし、ヘーキなのかと思ってたんだけど。」
「あのな……悪びれもなく押しかけ女房みたいに言うな!」
 むしゃむしゃと塩おにぎりを食べる淳平がつっこむ。
「ン?それもいいんじゃない?」
「なっ…!」
「冗談だよ。」
 からかわれているのか、どうも掴みきれない。その様子を少し楽しそうに眺める辺り、少し気分が晴れた様にも見える。
「ああ、オニギリは昨日のだけど、今ちょっと料理作ってるから。」
「それはありがたいこってす。」
「はい、出来たよ。」
 調理を終えてエプロンを解いたつかさが持ってきた皿によそわれていたのは、玉子焼き。
 美しく整えられた長方形、程良い焦げ具合、さすがの出来栄えとしか言えないが、片方がまさに今作られた出来立てで、片方は若干の時(といっても数分のレベルだが)が経っている様だった。一緒にたこさんウインナーとケチャップも添えてある。
「おいしそうだな〜!じゃあ頂きま…」
「あ、そっち醤油味だよ。」
 淳平が箸を付けようとした若干時が経った玉子焼きはつかさが醤油で味付けしたものだった。
「甘いのはそっち。」
「お、さーんきゅ。」
 嬉しそうに箸をつけ直す淳平とは反対に、つかさは醤油味の卵焼きを口にする。
「わざわざ味付け変えたの二つ作ったの?」
「だってあたし醤油のが好きだし。」
 生粋の関東人である淳平は甘い味付けの卵焼きを食べて育ったが、幼少期は関東では過ごしていないつかさには、祖母が作った醤油味の卵焼きの方が馴染み深かった。
「甘いのもいいって言ってるじゃん。」
「いいって。それよりわざわざ味付け変えたの二つ作ったお礼は〜?」
「だからお礼に甘いのあげるって。美味しいから食ってみってホラ!」
「いや、好み…んぐっ……。」
 もぐもぐ……。
 差し出された甘い卵焼きを思わず口に押し込まれる。熱がこもるとすぐに人に薦めるのは淳平の癖。
 不意の仕草につかさが戸惑っているのも気づいていない。
「ま、まぁ悪くはないけど……。」
「だろ!あとさ、このウインナーも絶品だぜ。」
「うん。って作ったのあたしじゃない。」
「おう、サンキュー。」
 綺麗に皿をまっさらにする淳平を見ると、作ったつかさも幸せになれる。
 しかしそれは、特別な存在である彼だけではなく、誰のものであっても等しく感じたいと、胸の内が求めている。
 料理を振舞った相手が笑顔で食べてくれる。そんな単純(シンプル)な幸せこそが、料理の醍醐味、自分の生き甲斐ですらあるのだと。
 彼の笑顔に気付かされた。
「……何?じっと見られてると食べづらいんだけど。」
 淳平の冷や汗まじりの指摘がくる。
「ごめん、ちょっと嬉しかっただけ。」
「変なの。ごっそーさん!さぁて今日の予定は………あれ?」
 食事を終えるとそそくさと今日の予定を確認する淳平。つかさは食器を片付け洗い物に入る。
(……あれ?俺の見間違いじゃないよな……?今日は……。)
 淳平はあぐらをかいで目をこすりながら本日の日付を何度も確認する。それを終えると、背後のキッチンに居るつかさに叫んだ。
「西野何やってんだよこんなトコで!!今日、志望大学院の社会人試験の日じゃねぇのか?!」
「へ?……あ、うん、そだけど?」
 振り返って見ると、ケロリと「それが何か?」とばかりに不思議そうに答えるつかさが、淳平には不思議に思える。
「よ、よゆーだな……。」
「そう見えるとしたら、淳平くんのおかげかなっ?」
「なんでだよ。」
 再び体を正面に戻すが、淳平にはさっぱり判らない。つかさのやることはいつも掴みきれない。
 と、さらに想像もつかない行動につかさが出る。
「………なっ!」
 唐突に、あぐらをかいでいる淳平の背につかさの体温が服越しに伝わる。彼女が背中合わせにもたれかかってきたのだ。
 立ち上がって「なんだよ突然!」と叫ぶ間もなく、淳平は硬直する。
「キミがいたから気づいたこと、いっぱいあるよ。気づかずにいた、とても素敵な事。」
 独りで凝り固まっていたつかさの心を解きほぐしてくれたのは、周りを包む光。
 その中に、いつの間にかこんなに長い時を分け合う存在が居る事を。
「フランスに行く前に、別れた理由。お互いに“強くなろう”“成長しよう”って思って、それはとても大事なことだけど、独りよがりじゃ意味ない。こうやってさ、寄りかかり合えるから、頑張れるんだなって思うんだ。夢見れるんだな…って。」
 その言葉が、思いがけず少しだけ淳平を切なくさせる。
 彼が今、身を粉にして頑張っている理由。そこにつかさの存在はどれだけある?自身の夢を見つめる度に、浮かぶのは――
 それをつかさの為と言うのもおかしいし、自分の為、エゴである事くらい自覚している。
「……不安じゃないのかよ。俺の夢は……。」
「東城さんの存在?それって不安に感じなきゃいけない事があるってコトかしらん?」
 不敵に逆説的な質問に対する質問が逆に淳平の言葉を詰まらせる。
「いや、それは……。」
「あのねぇ、悪いけどあたしの夢だってあたしの夢であって、淳平くんのものでもなければ、“淳平くんの為”なんかじゃないよ。」
「………。」
「だから自分の見たい夢は、自分の為であって構わないよ。変な気を遣われちゃこっちがメーワクだって。“誰か”の為に自分の何かを犠牲にするってのはさ、犠牲にする事の責任をその“誰か”に押し付けてるって事。押し付けられる方はたまったもんじゃないよ。互いの存在を視界に入れて気にしながら夢を見る余裕なんかお互いにないし、こうやって背中合わせに寄りかかり合って、安心出来る存在があるからこそ、目の前の自分の夢に思いっきり全力で向かえる…今はそんな関係がいいんじゃないかなって思うんだ。」
「……今までそうじゃなかった……?」
「かもね。だから、あたしはあたしの為に夢を見る。それが周りの人への恩返しで、キミへの“答え”だよ。お互い、まだまだ先の事だけど、だから…あたしもそーするけどさ…、」
 そこでつかさは不意に立ち上がり、背中が空いて見上げる淳平に続けて言った。
「思いっきりぶつかっていけ、淳平!」
「……そだな、あれこれ考えられっほど俺のキャパ広くねーし。」
 ポリポリと頭を掻く淳平。“悩むより動け”と言い聞かせてきた事が思い起こされる。
「ただ、差し当たって今日この日にぶつかってくのは、つかさちゅわんじゃあありませんかい?」
 そうだ。そしてなんでこんな会話になっているんだ?そもそも「なんでそんな大切な日にこんな所で過ごしているんだ」という疑問から始まったのだ。互いの関係と心の持ちようと語るのは結構だが、何も試験当日という大事な日にする必要はあるのか?集中しなくていいのか?マイペースにも程がある。
「まーまーこれがあたしなりのセイシンシューチューと願掛けって事で。」
 ポンポンと肩を叩き、準備らしい準備は全て昨日の内に済ませて来たのだろうか。鞄を持ってつかさは出発に向かおうとする。
「それじゃそろそろ行ってくるね!」
「ああ。」
 見送ろうとすると、つかさはすぐに足を止めて振り返る。
「あ、そーだ。願掛けの方はまだ済ませてないや。」
「?」
「あの…さ…、ギュッとしてくれ…ない……?」
 頬を赤らめながら突然言い出すつかさに、淳平は思わず言う。
「は?!」
「だから、ギュッとしてって言ってんの!」
「だから突然何だよ!」
「突然じゃ悪い?」
「いや、こういうのはだな、脈絡なく言うんじゃなくてもっとフンイキとか段取りとかを練って言うもんじゃないの?」
 身振り手振りで説明しようとする淳平に、容赦無い正論が浴びせられる。
「じゃあ聞くけど、淳平くんがいつフンイキとか上手く作ってギュッとしてくれたっていうの?!」
「あーあー、そりゃ俺は恋愛下手ですよ!でもそっちのマイペースぶりも程があるってモンじゃないの?突然来るわ、突然ギュッとしてとか、こっちは戸惑うっつーの!」
「いーじゃん別に!『彼女』なんだから!あー…もうこれじゃそんなフンイキどころかそんな気分でもなくなっちゃったー。もう知らない!落ちたら淳平くんのせいだからね!行ってきまー…」
「ああ、もうッ!!」
 淳平は諦めて出発しようとするつかさの両腕を掴み、自分の正面に向かせる。一呼吸置いて少し乱暴に自分に抱き寄せた。高校卒業後の4年間の間に少し筋肉が落ちているのが分かった。
「「…………!」」
 つかさの顔が途端に紅潮する。言うまでもなく、難しい表情をした淳平の顔も。
 また一呼吸置いて体を離し、つかさの肩に両手を乗せて淳平が語る。
「本当…マイペースっつーか、振り回されるっつーか……。ま、いいや。」
 そう言うと、こちらは逆に高校卒業後の4年間で鍛えられた筋力で、つかさの両肩を淳平が叩く。
「行ってこい!思いっきりぶつかっていけ、つかさ!」
「…よろしい!」
 そう言ってつかさが玄関のドアを開けると、朝の光が挿し込んでくる。そして敬礼のごとく手を額に当ててこう叫んだ。
「西野つかさ、……行ってきます!!」


(バカ……、振り回されてるのはコッチだよ……。)
 淳平の家を出て、動き始めた街を歩くつかさ。
(ごめん……、本当はまだ淳平くんに隠してる気持ちコトあるんだ。少しだけ強がってるトコある。…はぐらかしたつもりだけど、彼女のこと……やっぱり不安がない訳じゃない――)
 夢という、アイデンティティの体現に深く関わる所に、自分はいない。その約束の場所に辿り着けない。そんな力はない。仮にカミサマがいたとして、そんな力を突然授けてくれたって、ただの彼女の代替でしかない。
 その場所に居るのが、互いに恋を意識した存在であるならば、「彼女」として不安にならないはずがない。それを不安にも嫉妬にも思わないで「頑張って!」なんて言える、そんな聖人君子になれるほど、強くはない。
(でも、「彼女」という“カンケイ”に甘えてるだけじゃ、何があったって文句言える筋じゃない。)
 今はまだ“そうじゃない”と胸を張って言えるだけの自分も誇りも手に入れてはいない。
 気がつけば、あと1年と3ヶ月程で、淳平と知り合って10年になる。いつの間にか、こんなに長い時を分け合ってきた。
 けれども、これから先の二人の関係がどうなるのかなんて何処にも保障はない。それこそ、映画制作というパートナーを超えて、もしかしたら淳平は綾と付き合っているなんていう事も無いとは言い切れない。
 だけど、一つだけ確かに言える事がある。
 この先、どんな関係であろうと、全力で自分の夢に向かってるって…胸を張って言える自分でありたい――
(それが、キミが気づかせてくれた、一番大っきなコトだよ……。)

 ここから…つかさが見ている映像みらいは――

 2010年11月20日、二人が出会って9年目の秋の出来事だった。



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