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■SCENE-27:『Summer Panic Connection』


 人生において、思い出すと死にたくなるほど恥ずかしい思い出というものは誰しもが持ち得るものだろう。
 日本で、世界で、何が起ころうとも、季節だけは変わる事なく、2011年の夏も、日本は暑かった。
 とりわけその日は残暑が厳しく、暑く、ただただ、暑かった。
 そしてその日は、東城綾にとって間違いなく人生で五本の指には入るであろう、恥ずかしい思い出が残る日となった。

 その前日は、東城綾の新刊が発売されてから1週間後の事だった。一本の連載小説以外ではおよそ1年ぶりとなる小説の発売となる。
 デビュー以来順調に、そして幅も拡げながら作家業を続けている中では、出版記念パーティーのひとつでも催されそうなものだが、今更言うまでもなく、そんな事は苦手な綾にとって、この日は担当の静香と二人で、出版社近くのレストランでちょっと豪華な食事をして慎ましく出版を祝った。
「はい、今回もお疲れ様でした。かんぱーい!」
「乾杯。」
 互いに一口、ワインを口に付けると、早速今回の新作の話になった。
「でも、今回は本当になかなか難産でしたね。本格的な取材で海外に滞在なんてのも初めてでしたし。」
 今回の新刊『Level B〜Shadow over the world〜』は前作の路線と打って変わって、非常に重々しい内容となっていた。
 執筆前の3カ月、綾は唯をコーディネーターとして雇いながら、彼女の活動先の国々を訪問していた。
 綾にとって、決して「自分の目と耳で確かめる」のはモットーとは言えなかった。いや、正確には、彼女が自分の目と耳で確かめたものの多くは「創作物」であった。スクリーンの中、紙の上、人並みならぬ膨大な経験値こそあれど、箱庭の中で得た人工の宝石。
 それを痛感してしまったのは、淳平が預けたDVDに収められた作品の影響は否定できない。
 故に悩みもした。彼の方向性を追随する様な考え方に。それはかつての幼い好意の反動か、作家として判断か……。
 結局の所は、友人の助言も聞きつつ、やはり自身に足りないと感じるものを求めずにはいられなかった。
 南戸唯の案内で訪れたのは数カ国。
 ごく一般的な経済水準の国も訪れたが、日本では財布の中の僅かな硬貨で救える疫病に病む人々の多い国も多かった。
 それなのに、それでも、いくつもの笑顔が見られた。
 簡潔に言えば、「カルチャーギャップ」というものだろうが、意地悪い言い方をすれば温室育ちを画に描いた様なお嬢様であると同時に、彼女の繊細さと感受性からすれば一般人が受けるそれよりもはるかに大きかったろう。その上、帰国した日本でも大変な事になっていた。
 多くのクリエイターが同時に思い悩んだ様に、綾もまた、自らが創作し、発信するという好意の持つ意味に自問自答していた。帰国後1ヶ月ほどは彼女にしては珍しく、一文字たりとも文字を書く事がなかった。プロになってからは初めてと言ってもいいだろう経験だった。
 しかし、描くべき方向性を悩み抜いてからは早かった。第1稿が完成したのは5月の半ば。わずか1週間、ほとんど寝ないで創り上げており、連休明けに訪れた静香が寝間着にも着替えずにベッドで倒れている綾を見つけた時、傍らの机の上には置いてあった。ここぞという時の彼女の集中力は凄まじいものがある。
 見聞きした生の体験から、如何に自分のスタイルで料理するか?或いは全く違うスタイルに挑戦するか?今求められている創作の形とは何処に在るのか?悩み抜いた末の結論として、やはり彼女の描いてきたものは「創り物」の世界であり、淳平の様なありのままを強く映す様な形とは異なる、100%の架空の話として描く事とした。
 ただ、内容は彼女のならではのシリアスで繊細な人物描写が基調でこそあるものの、舞台は荒れすさんで救いの無い環境の地域であったし、何よりも一つ、決定的にそれまでの彼女の作品とは異なる点があった。
 それは、「人の死」を描いた事だった。今回の作品の一場面では、ヒーロー役の人物は残酷極まりない惨殺を迎える。さしたる理由も無い、救いのない死である。
 一言で言わせると「自分にとって大切な人と、理不尽極まりない別れ方をした時にどうすればいいのか?」をテーマにずっと描いていたという。
 実は綾はそれまで「人の死」を描こうとはしなかった。
 というのも、彼女の年にしてみれば少し珍しいが、綾は「人の死」というものを実体験してはいなかったのだ。
 多くの一般的な家庭なら経験する、両親の祖父母の死というものも、父方の祖父母は綾が物心ついた時には既に他界しており、逆に母は父と年が離れているせいか、母方の祖父母は健在である。友人・知人・恩師との死別というものも経験が無かった。
 勿論、創作物の中ではいくらでも触れてある。だけど、「死」というものにだけは何処か自分の中で封印をすべきものだと感じていた。
 今回、それを解除にすべきと判断するに至る経験を経て、踏み切ったのだ。
 彼女の作品の中でも一等に後味の悪い作品である点に、従来のファンや、あるいは前作の軽快なラブコメ路線からファンになった若年層からは批判も多い作品となった。
 既に表題から「Level」シリーズ作として作られていながら、如何なる繋がりやテーマを持ったものなのか理解不能な声も多く、意味深にそれを探る者も多かった(元々綾は狡っ辛い展開やケレン味の強い作品を作る性格ではないものの、人知れず細かな処で遊びや重要な伏線・設定を盛り込む事をよくしていた事もあるだろう)。
 それまで描けなかったシリアスで重い「テーマ」を描けた事に一定の満足と賞賛も獲得したものの、批判も多かった作品だけに、この時点での綾には、この作品がどう自身の真の夢に向かう為のステップになるかの確信は正直持てていなかった。
 描いてしまって、出してしまってから考えればいいだろう、と、悩み抜いた末の結果は割とすんなりと受け止めるつもりでいた。


 さて、そんな並々ならぬ意識で挑戦した作品が発売にこぎつけ、他の仕事もあるものの、ようやく綾も一段落がついた。
 しかし、読者諸賢にも経験があるだろう。
 トラブルというものは安寧の日々に身を委ねたと思った時にこそ発生するものなのである。
「よっし、頑張るかな。」
 それは先の静香との囁かなディナーの翌日、9月の上旬の事だった。夕方15時から綾が一人、家の外れにある書庫倉庫の整理に勤しんでいた時だった。
 年単位レベルで整理が付けられなかった書庫をようやく片付けられそうとあって、綾は少しだけ気分が浮かれていた。
 時間こそかかったものの、至って何の問題もなく、書庫の整理は終わった。
 …と思ったその時だった。
「ふーっ…え?もう20時?どうりでお腹も減るし喉も渇くはずね。近所で夕飯でも買って、」
 ドサドサドサッ!!
「……え?」
 (嫌な崩壊音…)と思いつつ、そ〜っと後ろを振り返る。
「……………あぁ……。」
 こういう時、出てくる声というものは案外大きなものではないものである(元よりその様な性格ではないが)。
 しかし、目の前に広がる惨状…整理したばかりの本は全て崩れ落ちている。これまでの数時間の努力は一体……。
 だが、それよりも遥かにまずい状況に陥っていた事に、綾は気づき始める。
「これ…開けられそうにない……。」
 崩壊したラックが見事にドアを塞いでしまっていたのだ。
 整理の努力に対するもの以上の落胆が綾を襲う。
 たまたまこの日、母親は友人と旅行中で、父親は出張で明日まで帰ってこない。最悪の場合、一日この倉庫の中に閉じ込められたままという事になる。
 何とかしなければと探ってみると、幸い、倉庫に1年ほど前に入れ替えで置いた古いPCがあった。
「ホッ…良かったぁ……。」
 さらに幸いな事に、PCを点けてみると自宅の無線LANに繋げる事が出来た。これで何とか外部との連絡が取れる…。
 だが、大きな落とし穴があった。
 最近流行りのSNSもやっておらず、リアルタイムで現状を他者に知らせる手段が無い。
 メールは使用を止めて設定を消去した。自宅の現役PCの設定など分からない。送った処でいつ読むかは分からない。
 唯一頼れそうなのはPCを介しての電話である。
「よしっ…これなら…!」
 と一瞬思うも、これも厳しい状況だった。
 自室に携帯電話を置いてきてしまっているのだ……。そもそも携帯電話を持っていたらわざわざPCを使って電話する必要などない。
(全然電話番号分からない……。静香さんの電話番号すら分からないし……、というか仕事関係の人に知らせるのは……。)
 はぁ〜…、と深い溜息をついて、壁の一角にもたれ座る。
「困ったなぁ…こんな時間だし、暑いし……。」
 心細さにシュンと項垂れ、かといって何が出来る訳でもなく、手持ち無沙汰なのか、右の短パンのポケットを探ってみると、財布だけは入れていた。
 中を探ってみても、出てくるのは数枚の硬貨、紙幣、各種カード、若干数のレシート…。
(財布なんか見ても何にもならないよね……。)
 無意味な行動をしているな…、と我ながら思いつつ財布を探り続けると……、
「……これは……あっ!……こっ…これなら……!あ、…どうしよう……?」
 何かを見つけて、今度は突然葛藤を抱えだす綾。
「…でもこのままこの中に居る訳には……。」


 およそ30分後――
「……ん?」
 いつもの様に撮影からの帰宅途中、見慣れぬ電話番号からの着信が来る。
「…………どちらさん?」
 淳平はしばし、いぶかしみながら眺めて見る。
 だが、すぐに止む事もないコール。もしかしたら誰か仕事関係の連絡かもしれない、と考えると、理不尽に「何故出なかった!」と言われかなねい。探り探りに電話に出てみる。
「……もしもし?」
「……!あ!良かった!もしもし真中くん?!」
 (俺を「名前で君付け」…、それにこの妙に細く高い声質……まさか?)
 まさか?そうは思っても、思い当たる節のある人物はただ一人しかいない。
「東城?ど、どしたの?」
「ごめんなさい…!ほ、本当はかけるつもりなかったんだけど…!今、あたし大変な事になってて……!!」
 電話越しに伝わる声は、明らかに動揺が走っていた。

「…ビデオカメラは外村に渡してあるし。」
「…………あたしのせいだ……。」
「気にすんなって。朝になったらまた探してみるよ。」


 今にして思えば、高校時代に彼女がその様な心境に陥りがちなのもよく分かっていたし(あまり他人の事も言えないのだが)、それに約束の時まで連絡を絶つつもりを(自分は一回破っている訳だが)曲げてまでかけてきたというのは、余程の事が彼女に起こっていると考えた方がいい。
「お、落ち着け東城。とりあえずなんで登録してある番号じゃねーんだ?」
「パソコンからネットを通じてかけてるの。」
「という事は今携帯が手元に無い?」
「そう。」
「詳しく状況を聞かせてくれ!」
「い、言い難いんだけど…、実は今、自宅の書庫に閉じ込められてて……。」
「……はいぃ?!」
「…せ、整理をしてたら、ラックが崩れてドアを塞いでしまってるの……!」
「そ、それはまずいな…。」
「何とか置いてあった古いパソコンを繋いでみたんだけど、でも真中君の以外、誰のアドレスも電話番号も覚えてなくて……。」
「え?そ、そーなの?」
「だから…助けて欲しいの!」
 綾としては相当な恥を忍んでのお願いであった。
 不可抗力な緊急事態ではある。が……、

 「自宅に閉じ込められてしまう」。

 そんなドジ極まりない状況はなかなか聞いたことがない。
「場所は?家の中?!外?!」
「そ、外!庭の外れ!」
「扉は外開きか?」
「え、ええ。」
「分かった!今からそっち行く!!」
「え?」
「外開きならとりあえず開けられっだろ?扉さえ開けられれば何とかできるかもしれねぇ!!」
「ちょ、ちょっ…!」
 プツッ。
 しかし、そんな状況を少したりとも笑い飛ばす事もなく、我が事の様に受け止め、気がついたら走りだしている。
 若干熟慮が足りないとは言えなくもないが、それは淳平の美徳であった。
 そしてまた、電話をかけた相手が、こういった知人の切羽詰まった事態には即断即決で行動する淳平で正解だった。
「……パソコンの電池切れちゃった……。」


 とはいえ、高校時代ならば自転車で15分の距離だった淳平の家と綾の家の距離は、今では電車も使って計45分かかる。

「暑っちぃ……。」
(…暑い……。)

 夜とはいえ、まだ残暑が厳しい9月……冗談っぽさとは裏腹に、事態は深刻でもあった。この暑さで、綾は外部と連絡が取れないまま、空調の効かぬ倉庫に閉じ込められたままなのだ。
(大丈夫かアイツ…?辿り着くまでなら何ともなさそうだけど、開けるのに手こずったらちょっと厄介だな……脱水症状とか起こしてなきゃいいけど……。)
「まずいなぁ…汗が止まらない。」

「……それにしてもなんで俺に電話かけてきたんだ?あ、そういや俺の番号だけ覚えてるとか……………ねぇ?これってどうリアクションするのが正しいの?」
「もう外とは連絡取れないし、真中くんだけが頼りかぁ……。はぁ〜……。」


「ええっと…東城の家は確かここから……ああ、こっちか!」
 勢いで飛び出したものの、今ではそんな状況でもGPSという便利な機能が淳平の携帯にも付いていた。
 さすがに綾の家の住所は覚えていない。ただ、近所のレンタルビデオ店までは覚えていた。そこまで辿ればあとは何とか思い出せる。
 特に迷う事なく綾の家に辿り着けた。
「はは…、やっぱでっけー家……。」
 庭の一角の倉庫は容易に見つけられた。だが、問題はここからである。
「おい、東城!ここに居るのか?!おーい!!」
 遮る扉を突き抜ける大声で叫ぶ。
「違った!外開きなんだった!」
 “閉じ込められている”という状況だけが頭の中に先行していた。淳平がガチャリとドアノブを捻り、扉を開けると…、
「開いたッ!……うわっぷッ!!」
 ドサドサドサッ!!と大量の書物が淳平の頭上に襲いかかる。思わず後ろめりに倒れる。
「………あ〜あ。」
 襲いかかってきた本のモンスター共の散らかった惨状も然る事ながら、開かれた扉には更なる封印が施されている。メタルラックがグシャリとねじ曲がって、扉を塞ぐ。
「はは、なるほど、こりゃ出れねーな……。」
 しかしながら、メタルラックである以上、多少の隙間はあるにはある。本棚で完全に塞がれていたとしたらまずかったが、十分に声は通るはずだ。
「おーい!東城!居るか?!」
 ………………。
 だが、淳平の呼びかけに反応は無い。
「おーい!」
 ………………。
 やはり反応は無い。
(もしかして脱水症状で倒れてたりしてねーだろな…。)
 悪い状況を考えざるを得なくなる。
 注意深く隙間を覗いてみると……。
(……………ッ!うわっ!)
 顔は見えないが、倉庫内の中央右手で無事の本棚の傍で倒れている綾らしき人物の姿があった。
 しかもその人物は扉にお尻を向けており、無防備にも淳平の位置からはパンツが丸見えだった。
(あ、赤って…初めて見…いやいやいや!!)
 男として礼儀と言わんばかりに眼前の光景を見て、予想外で未経験なカラーにしばし戸惑うもすぐに淳平は首を横に振る。
「あれ完全に倒れてるよな…本当にヤバくね……?」
 状況はパンツの赤が示す通り、“警告”状態であると判断せざるを得なかった。
「とりあえず…ふんぬぅううううううう!!!!」
 一番力が入れられそうな箇所に両手を付け、押し出してみる、横にしようとしてみる。
「…ハァッ!ハァッ!ハァッ!ダメだぁ〜……。」
 だが、この数年で鍛えた淳平の力を持ってしてもメタルラックはビクともしない。
「…となると、脱出できるスペースを作るしかねぇなこりゃ。」
 ひしゃげたラックは人が通るにはまだ厳しい。
「でぇええいっ!!えいっ!うおりゃっ!!」
 どうせ壊れて使い物にはならないラックだ。遠慮無く力任せに支柱を蹴り飛ばし、ビスを弾き飛ばして板を外し、なんとか人が通れるだけのスペースは作れた。
「ふんうぬぬううううう!!えええいっ!」
 狭いスペースに大柄になった身を入れ、何とかかい潜って中に入れる事が出来た。ただ、高さが多少あるせいで潜った末に前転してこけてしまったが。
「イテテテ……。はっ!東城!」
 速足でかけつけ、倒れている彼女の上半身を抱き上げる。
(うわっ…汗でぐっしょり……髪も額に貼りついて……。)
 夜になっていたとはいえ、空調のない残暑の密室。綾の体は駆けつけた自分と同じ位に汗だくで、それがどうにも扇情的に映る。倒れている姿では扉からはパンツが見えた様に、衣服が少しはだけている。
(ゴクッ…!で、でもこれだけ汗かいてるって事は……!)
 おびただしい汗は、即ち、それだけの水分が彼女の身体から奪われている事を意味する。
 呼びかけても無かった反応、抱きかかえても目を閉じて眠っている様に見える。意識が失われているのかもしれない!
「起きろっ!東城!起きろオイ!」
 揺さぶりつつ、頬を叩きつつ、そんな行動は初めて。淳平はそれらが通常の男であれば、情動をかきたてるに十分な筈なのに、本人も必死で気付かない。
 だが当然だ。未来の約束を誓った仲が「自分の家で閉じ込められた」なんて珍事で危機を迎えてたまるか!
「おい!頼むから起きてくれ!東城…ッ!」
「…う、う〜ん……。」
 数度の呼びかけで、ようやく綾は目を醒ました。
「ホッ…良かった…、気がついたか?」
「………あれ?真中くん?…おはよう??」
 目を醒ました綾は半分寝ぼけていた。家の中だからか大して化粧もしていないのでクマが見える。恐らくは最近も相変わらず仕事三昧だったのだろう。倉庫に閉じ込められ、何も身動きが取れないとあれば、大人しく助けを待つよりない。そんな条件でじっとしていれば眠気も襲ってはこよう。
「………………………………おい。」
 グイッ。
「んんっ…??」
 だが、最悪の場合は命の危険さえ感じて駆けつけた淳平にとって、ただ眠っていたという状況は脱力であり、左手は変わらず彼女の上半身を起こしているものの、右手で綾の額をぐっと押して、ツッコミを入れざるを得なかった。
「おはよう、じゃないだろ……。」
「うん……………んん?!」
 次の瞬間、綾はズザザザザ…!と凄まじい勢いで顔を真っ赤にしながら淳平の身体から離れる。
「…何故逃げる……?」
「だっ……だって…!」
「……ま、目が覚めてなによりだ。大丈夫か?」
「うん…ちょっと喉が渇いてる。」
「…これ、飲むか?」
「うん……。」
 淳平はポケットに突っ込んでいた取り出したるミネラルウォーターを差し出すと、受け取る瞬間こそそっとしたたおやかな手つきでこそあるものの、綾は一気に飲み干そうとする。開封済みである事にも気づかず……。
「……あ、それ俺の飲み差しだけど……。」
「………!んんんっ!!」
 “そ、そんな事は先に言って!”
 そう言わんばかりのリアクションを取り、綾はますます顔を真っ赤にしながら、飲み干そうとした手を止める。
「…いや、そんな気にしなくても。」
 いくら男女とはいえ、フツー20歳を越えて“間接キス”ぐらいで狼狽えるか!?狼狽えられる方が恥ずかしくなるだろ!……いや、でも狼狽えるだけの“過去”を作っているのは自分か。
 そんな仕草が可愛いと思いつつ、いやいや、そんな事を思っちゃダメだ!と気持ちを塗り替える。
 内ではそんな事を考えながらも平静を装いながら、淳平はそう答えた。
「…ごめんなさい。わざわざ来てくれたんだね。」
「当たり前だろ!……ま、とりあえず無事で良かった。」
 ようやく安堵の溜息をつく淳平。
「ありがとう……。」
 その姿に綾は感激と感謝の念を隠せなかった。
 だが……、…だとしながらも、間が抜けているにも程がある事態に情けなさと申し訳なさと恥ずかしさとに苛まれる。
「…それにしても、まさか自分の家に閉じ込められるとは思わなかった……。」
「ま、まぁこういう事もあるさ。気にすんなって…。」
 あんまり聞いた事はないけどな…と、淳平の本音と建前が逆なのは言うまでもない。
「こっ、この事はナイショにしてて!他の誰にも言わないで!」
「心配しなくても言わねーって。それよりいい加減出ようぜ。な。」
 苦笑を必死に隠しつつ、淳平は親指を出口に向けて、脱出を促す。
 二人は崩壊したラックの前に並ぶと、少し問題点がある事に気づいた。
「……真中くん、これちょっとあたしには高いかなぁ。」
「…そっか。しまったな。ブチ破れそうな所から入っただけだから。」
「……………。」
「……………。」
 赤面して互いに顔を見合わせる二人……。
 思いはひとつ。
「……俺が持ちあげるしかないな。」
「ごめんなさい……。」
「とりあえず上半身位は何とかとっかかれるだろ。そしたら持ち上げっからさ。」
「やってみるね。……よいしょっ!」
「おっけ。いいぞ!よ…い…しょっ!」
 微かに斜めになった鉄板に両手を付け、綾は塀を登るように上半身を持ち上げる。
 すかさず、阿吽の呼吸で淳平が綾の両脚を持ち、上に押し上げる。
 腰まで持ち上げれば、いくら運動音痴の綾でもあとは上半身を前に乗り出せば脱出できるだろう。
 そう、思っていたのだが……。
「…どうだ?何とか乗り上げられそ………ブッ!!!」
「うん、もうちょっと…!キャッ!!ど、どうしたのっ?!急に手を離さないで…!」
「ごっ、ごご、ごめん!」
「あっ!ち、力が…!もう…ダメッ!!」
 ドッシーン!!
 持ちあげる筈の淳平が急に手を離してしまった為、綾はせっかく乗り上げた上半身を支えきれず、そのまま落ちてしまう。
 しかも落ちた先は淳平の顔面の上だった。
「いたた…は!ご、ごごごごめんなさいっ!!」
「……いや、なんとか大丈夫。」
 下敷き状態からすぐさま解放された淳平だったが……。
「やだ、鼻血が出てる…!」
 綾は見に付けていたポケットティッシュをササッと取り出し、淳平の赤く染まった鼻に詰める。
「こちらこそ悪い…。」
「大丈夫?」
「いや、この鼻血はさっきの衝撃じゃ……。」
「?」
「なんでもねぇ……。」
 淳平は鼻血の量とは裏腹に、なんだかゴニョゴニョと歯切れが悪い。綾はそれを落ちた衝撃によるものと思っていた様だが、真相は異なり、鼻血も歯切れの悪さも一つの説明がつく。
(めちゃくちゃパンツ丸見えだった……。)
 パンツの色が示す赤は、それそのものが淳平の災難を呼ぶと警告していたのかもしれない。

「はぁ〜…やっと出られたぁ!」
 気を取り直してやり直し。今度は上を見ずに綾の脚を持ち上げる事で成功した。
「よっ…と!」
 続け様に淳平も一人で脱出する。
「ふぅ〜何とかなったな……。……にしても後が大変そーだなこれ……。」
 倉庫の入口は無残に壊れたラックと落ちに落ちた書物の山となっていた。
「……外に出られただけでも良かった。本当にありがとう。……ごめんなさい、会うつもりじゃなかったのに……。」
「いやまぁ、こーゆー事態なら四の五の言ってる状況じゃねーだろ…。ま、とりあえず無事で良かった。」
「うん……。」
「…………あれ?なんかさっきから東城ソワソワしてない?」
「ごっ、ごめんなさい!おっ、お手洗い……!」
「あー悪ぃ…とりあえず行ってきなよ。」
 綾は駆け足で家の中へと入っていく。
「はー…なんだかおかしな夜になっちまったな……うん?……ま、眩しッ!なんだぁ〜?」
 とりあえず事態が解決してホッと一息ついたのも束の間、突然、淳平の顔面を目掛けて光が射し込む!
「おおお、おまわりさんあそこ!!あそこに不法侵入者がーっ!!!」
「おい!そこのお前!そこで何をしている?!」
「わーーーっ!!」
 隣人と思しきおばさんが警官を連れてやってきた。
 まずい…!これはまずい……!!
 綾は自宅に戻り、この場に在るのは、グシャグシャに壊れた書庫の入口と自分だけ。時刻は夜も更けてきている。
 この状況はどう考えても「罪状:不法侵入、器物損壊、窃盗未遂」である!
「キャーッ!!綾ちゃんの家の倉庫が壊れてる!グッシャグシャ!!」
「ザッと見て20万ぐらいするなこれ…。お前何してんだ!若いのに!!」
「ギャーッ!!誤解!誤解っすよ!俺はただ、ここに閉じ込められた東城…綾さんを助けに来ただけで!!」
 “綾さん”って何だ?と、下らない疑問が一瞬浮かびつつ、状況を必死に説明する淳平。
「嘘おっしゃい!綾ちゃんなんか何処にもいないじゃないの!隣でなんかガンガン音するから見てみたら見知らぬ男が必死に倉庫に入ろうとして、このドロボー!……ンンン?この男、何処かで見たよーな……。」
「だから、それは中に閉じ込められてた綾さんを助けようとしただけで……、あれ?このおばさん……?」
「…………あっ!思い出したわ!この顔、何年も前につかさちゃん家で下着漁ってた変態男!!そっそれと!ウチのビアンカちゃんを捕ろうとした男!!」
「あ、あん時のおばさん!?なんでこんなところに居るんだよ!」
「引っ越しただけよ!やっぱりこの男、犯罪者ね!お巡りさん、この男は数年前にもアタシの隣の家で下着泥棒してたんです!つかさちゃん家の下着は漁るわ、ビアンカちゃんは狙うわ、今度は綾ちゃん家の倉庫は漁る!?もう言い逃れできないわよ!覚悟なさい!!」
「だからどれも違うって言ってんだろーっ!!」
「とりあえず君ね、交番まで来て貰うよ。そこで話しよう。大人しく来なさいっ!」
「わ〜〜っ!ちょっとちょっと…!」
「どうも、通報ありがとうございました。」
「いえいえ〜、うんと懲らしめてやって下さい!!」
 つかさの時はすぐに出てきてくれたというのに、綾はなかなか出てこない!
「と……、東城出てきてくれヨォオオオオ!!」
 それでも綾は出てこない。
(助けに行ってこれがオチ……?)
 為す術もなく淳平は警官に連れられていく。

「はぁ〜、本当にごめん、真中くん……。」
 そんな事は露知らず、綾は誰もいない玄関に出る。
「……あれ?……真中くんは?…もう帰っちゃったのかな……?電車賃とお礼(お菓子)持って行って欲しかったのに……。」
 今宵のヒーローは、ドナドナの子牛の如く連れ去られて行った事に気づかずに……。


「…ってな事があってさー、大変だったんだぜ?」
「プクククク……。アーハッハッハッ!!!じゃあもうちょっとで留置場で一晩過ごす所だったんだー!!」
「笑いごっちゃねーよっ!」
 淳平の家の近所のカフェ。
 机に突っ伏す形で笑っていたが、たまらず爆笑を挙げるつかさ。
 他人からすれば、この一部始終は笑い処満載にも程があるだろう。
「はぁ〜可笑しっ!……笑った笑ったー。へー、篠原さんそこに引っ越してたんだー。」
「あのオバさんの事なんてどうでもいーよ。」
 淳平が憮然とした表情でアイスレモンティーをズズズッ…と飲み干す。
(西野がこれだけ笑ってくれるならまぁいいか。)
 そう思って油断したのも束の間、さっきまで大笑いしていたつかさは急にこのエピソードに注文をつけた。
「でもさぁ、この話、1つ程言っておきたい事があるんだけどさ。」
「うん?」
「淳平くんって女の子が『ナイショにしてて』って頼む事、笑い話にする程口が軽い人だったんだぁー?」
「…え?…………………あ。」
 カキン!と淳平の表情が固まる。
 逆につかさはニコニコと笑顔を変えてはいない。
「それって良くないことだよね〜?」
「……………はい。」
「中3の時にウチに来た時の下着泥棒騒動も、もしかして誰かに話してるのかなぁ〜?」
「そっ、それは誰にも言ってねーよっ!大体あれはドジ踏んだのは俺だし…。」
「へー、ドジ踏んだのが自分じゃなかったら他人に喋るんだー。」
「……………。」
「……良くないことだよね?」
「……………。」
「……………良・く・な・い・こ・と・だ・よ・ね・?」
「……はい。」
 つかさの表情はず〜っと笑ったままである。つかさにしてみれば特に他意はなく、ただ大笑いしたのでそのまま2、3注意したかったのでそのままの顔で言ってみたら効果がありそうだ、と思っただけなのだが、淳平にしてみれば……。
(怖えぇ……西野、新しい怒り方覚えたな……。)

 ちなみに、綾が「真中君の以外、誰のアドレスも電話番号も覚えてなくて…」と言って、助けに向かう途中で淳平がドギマギしていた件だが、勿論これは綾の意訳であり、彼女は淳平の携帯電話の番号を覚えていた訳ではない。
「こんな形で助けられるなんて……あまり嬉しがる事じゃないけども。」
 軽い自己嫌悪に陥りつつ綾がカサリと広げた紙は、2年前に美鈴から預かった、淳平の連絡先が書かれたメモ。
 これが単にずっと財布に入れっぱなしだった、というだけのオチである。



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